▽前節から続く▽
それから私の光について、今度九つになる子供が実によく見たのです。それでかえって子供だけに無心ですから、神様は子供を使ったわけです。これはたいへん参考になりますし、早く知ったほうがよいと思いますから読ませます。
(御論文「私の光に就いて」およびお蔭話朗読)〔「著述篇」補巻三、六六八―六七〇頁〕
それから私の文章……書くものについて書いてみました。
(御論文「私の文章とその他」朗読)〔「著述篇」第二巻六七一―六七四頁〕
いま読んだような具合で、どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。苦しみながらしている気はしないのです。道楽みたいなものです。観音様の中に「遊行観音《ゆぎようかんのん》」というのがありますが、ちょうどそういうようなものです。それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。それでいろいろ苦しんだり、気がいかないことをやっているとうまくゆかないのです。この点がいままでの世の中の人と反対です。これは信者の人でも同じわけです。だからいやいややったり、苦しんでやったりしたときにはロクなことはないです。病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行くときは、きっと治りが良いし、治るから行くわけで、またそうだから良いわけです。だから楽に行けばゆくほど発展するのです。ここがいままでの世の中と違うわけです。ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それをあたりまえのように思っているのです。私も始終そういうことがありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないというときには、「オレは苦しんでやっていた」ということに気がつくのです。それでそれをほうり出して、他のことをやるということがあります。それからまた時節というものがたいへんなもので、たとえうまくゆくことでも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。それはやることが悪いのでなくて、時節が来ないのです。そこを見通すだけの智慧証覚がなくてはならないのです。それからまた順序ですが、これがまた実にたいへんなものです。うまくゆかなければならない、こうならなければならないのがどこかつかえている、うまくゆかないのですが、そういうときによく考えてみると順序が違っている場合があります。それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。ですからそういうようなことを早く発見するということが智慧証覚です。この智慧証覚というものがまたたいへんな意味……というよりか、物事に影響するのです。それで智慧証覚があると気がつくのです。一番分かりやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。それで順序というものは、やはり理屈に合うことです。合理的なものです。だからその病人なら病人が、まだいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりするときにはうまくゆかないのです。そのうまくゆかないというところにまた一つの理由があるのです。それは、その病人がなにも分からないうちは疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それはあたりまえです。ところがそうとうに話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、そのときは治りが悪いのです。うまくゆかないのです。そういうことに対してチャンと合理的の理屈があるのです。だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それからそうとうに信じている人で治りが悪いということがありますが、それはそういうわけです。ぜんぜん知らない人はいくら疑ぐっても、それはあたりまえのことで許されるのです。理屈に合っているのです。ところがそうとう事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。そういうことをよく考えてみると、チャンと理屈に合っているわけです。その合っている理屈を早く発見し、早く知るということが智慧証覚です。心の鏡に写るわけです。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するということになるのです。ここに信仰の、あんがい軽く見ていることで、実は非常に重要な点があります。このことについては、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」ということをよく言います。これはそのことです。それでその智慧がある程度まで働いたのが覚者と言うのです。それで大覚者というと一番偉いのです。それで、お釈迦さんが言ったのに「証覚を得れば菩薩にする……「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」である」ということを言っているのは、やはり覚りということは智慧です。ですからいろいろとなにか気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書をたくさん読むということが一番よいわけです。ですから御神書を読んでも、前にはよく分からなかったのが、その次に読んだら、あるいはしばらくたってから読むと、「これだ」「こんな良いことがある」「こんなはっきりしているのにどうして自分は分からなかったか」ということがあるが、前に読んだときには曇っていたからです。だからだんだん曇りが除《と》れてゆくにつれて、だんだん分かりが良くなるということは、そういうわけです。
△御講話おわり△