昭和二十八年十一月十六日の御講話(4)

(前節から続く)
 ちょっと違った論文を読ませます。

 (御論文「新聞の売薬広告」朗読)〔「著述篇」第一一巻六六五ー六六六頁〕

 これはちょっとおもしろい論文です。これは何回にもわたって書いてゆこうと思います。いままで昔からこんなことを書いた人はだれもないのです。キリストや釈迦やマホメットという人も、こういう点にはぜんぜん触れてないのです。ですから後世いろんな説が出たり、どういう点によってああいうことをやったのか、ああいうことができたのか、ということがさっぱり見当がつかないのです。あの時代はそういう時代であったのかもしれないけれども、今日の目を持っている人には、はなはだどうもまわりくどいような不透明なようなわけです。だから説く事柄もいろんな説が出たりするのです。というのは、あの時代では文化がそこまで行ってないから、あんなところで良かったのかもしれません。今日ああいうことを言っても、テンデ人は耳を傾けることほありません。それもさっき言ったとおり、批判力のしっかりしたものを持っていないために、いままでは前提的に、みんな良いという、そういったものに無批判にその考えになって、一生懸命にやるというわけです。これも私からみれば、はなはだもどかしい気がします。それで私はそういうことがどうも本当でないからして、神というもの、人というものはこういうものだということを、できるだけはっきり分からせようと思います。そうなると迷信もなくなってしまいます。迷信ということは、やはりはっきり説いてないからです。はっきりつかめないようになっているからして、迷信も起こるのです。それで、はっきりできなかったということも、神様のほうの深い意味があるのですが、そういうこともだんだんに書きますが、とりあえず最初のほうを読ませます。

(御論文『私物語』「私は神か人か」朗読)〔「著述篇」第一○巻九七-九九頁〕

(御講話おわり)

「昭和二十八年十一月十六日の御講話(4)」 昭和28年11月16日