大阪市毎日会館での御講話(1)

 いままでに四回関西方面に来まして、四回とも名古屋と京都では講話をしましたが、今度は五回目で大阪で初めてやるわけで、進出というとおおげさですが、話をするわけです。だいたいいままでは京都に別院を造るについて、地上天国と美術館というような目的が主だったのですが、五回であらかた見てしまって、その結果これからその設計をしてボツボツ取り掛かるわけです。それでほうぼうを見た結果、その結論としては、なるほど奈良朝時代の、一〇〇〇年以上前の京都、奈良を中心としてのいろいろな美術品では、特に仏教美術に良い物がたくさんあります。けれども一番遺憾<いかん>に思うのは庭園です。庭園はまったく遠慮なく言えば、他の美術品とはぜんぜん釣り合いがとれないほど劣っていると言えましょう。京都の名園としては桂の離宮とか修学院<しゆがくいん>、それから一昨日見た三宝院<さんぽういん>です。その他いろいろありますが、どうもいわゆる芸術的のところがないのです。ただ木と石とで当時の頭で作ったのですが、特に三宝院の庭園などは秀吉が直接指図したとか聞きますが、秀吉はほかのことは偉い人ですが、こういうことはどうも恐ろしく小規模です。小さいのです。ですから私はどうしても、庭園としての特色を最高度に発揮したものを造ろうと思ってます。ですから外国の人が京都なら京都に来て、日本のほかの物はとにかくとして、庭園の美には失望するのではないかと思います。ですからそういう点において、特に庭園に力を入れて、外人が来ても、なるほどと思うような物を造ろうと計画してます。それからもう一つの欠点は、ずいぶんほうぼうのお寺を見ましたが、お寺と言えば仏像です。仏像の彫刻は世界一と言っても決して過言ではないと思います。それはすばらしい彫刻美です。特に彫刻美と言えば仏像に限ります。ロダンのように人間を写したのではなく、人間の理想を表現した、一種の宗教芸術によって現わすということが、それから受ける人間に対しての非常に高度の感覚と言いますか、美から受ける非常によいものです。それを受けるということについては、非常に美の高さを感得させるたいへんな働きをすると思ってます。ですから京都、奈良にある仏教美術を、もっと多くの人に楽しませながら、よい意味の働きをさせなければならない、ということをつくづくと感じます。ですから嵯峨<さが>の平安郷に仏教美術館を造るべく、これからだんだん考えます。それからもう一つのことは、一つのお寺でこれは勝<すぐ>れていると思う物は、ようやく二つか三つです。中にほ一つぐらいの所もあります。ですからそういった良い仏教美術を見るといっても、それを見るには幾日もかかりたいへんな騒ぎです。いちいち靴をぬいで、薄暗い所で見なければならないのですから、その暇と見る感じが非常によくないのです。これをなんとかしなければならないのです。明るい所で見たいというのがずいぶんあります。なにしろ昔こしらえたときの本当の目的は宗教本位ですから、それにはあんまり明るい所ではありがたみがないので、できるだけ薄暗くして、あらわに見えないような設備になってます。ですからそういう点において、日本人は勿論ですが、外人などが見ようとしても、どうも気持ち良く見られないという、そういう点を満足のゆくように仏教美術館をこしらえて、そうして明るい所で名作を一度に見られるような、そういった意味の美術館を造ろうと思ってます。そういうようなわけで、京都や奈良のことについてはいろいろ話したいこともありますが、この話はそのくらいにしておきます。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十八号,岡田茂吉全集講話篇第十一巻p228~229」 昭和28年11月11日