昭和二十八年十一月七日の御講話(3)

(前節から続く)

 それから昨日ハワイの弁護士の三保という人で、これは今度ハワイの法人を骨折ってくれた人ですが、法人は許可になったのです。その報告とかいろいろな話ですが、日本の弁護士と違って宗教的に、なかなか理解があるのです。そう言っては悪いが、日本の弁護士はおよそ宗教とは反対です。もっとも解釈のしかたですが、昨日の弁護士の話によると、アメリカはすべて裁判官とか弁護士とか法律のことをやっている人は、宗教が非常に肝腎だと言うのです。つまり人を裁くのですから、その場合に公平に裁くとすれば、正義を土台とするのだから、神様を拝むという宗教的信念があれば非常によいというのです。ところがいつかの裁判などでも、私の経験によると、日本の弁護士というのはそういう解釈とは違うようです。つまり法律家というものは……裁判官もそうですが……法によって裁くのだ、宗教とはぜんぜん関係ない。宗教はまずだいたい迷信が多いのだから、そういったことで裁判官や弁護士が頭を使うとかえって良くない。だからあくまで法の理屈で裁き、理屈によって善い悪いを決めるということが本当だというように思っているらしいのです。だからたいへん違うのです。だからそれがどういうふうに裁判上に現われるかと言いますと、日本の裁判官は、この人は良い仕事をしているとか、国家社会に良い仕事をしているということは、ぜんぜん眼中にないのです。この人間は法律第何十何条に抵触<ていしょく>するということで、他のことの良い悪いはどうでもよいのです。それいっぽうで罪を決めてしまうのです。ところがアメリカはそうではないのです。アメリカでは、どうせ大きな仕事をする人や役に立つことをする人間はウッカリして法に触れることがありがちのものだ、だからただ罰しないで、この人は社会のために大きな仕事、良い仕事をするかということを基本にして罰するのだそうです。それで私の裁判でも最後に出た某弁護士が、岡田という人はこういう社会のために良いことをしていると力説したが、テンデそういうことは裁判官は耳に入れないのです。鵜沢総明<うざわふさあき>さんなどもそういった考えでした。だからむしろああいう弁論は、実際の罪と的外れになっているような気持ちです。ところがぜんぜん裁判官のほうでは馬耳東風なのです。ただコイツを罪にしてやろうとか、ごく細かい徴罰的にそれに引っ掛けて、罪人にすれば手柄になるというような具合です。ですからアメリカがああして進歩発展するのはそういう点にも大いにあると思います。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十八号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p209~210」 昭和28年11月07日