昭和二十八年十月五日

十月五日

 今度の選挙について滑稽なことは、公明選挙とかいって違反者をできるだけ少ないようにと、要するに公明正大にやらせようというのでしょうが、結果からみると、かえってこの前よりか違反者が多いのです。実に皮肉な話ですが、われわれからみるとあたりまえなのです。結局精神的に、つまり信仰的に……有神……神は在るということを覚らせる以外に絶対あるはずはないのです。世の中に神がないとしたら、それは知れないようにうまく買収して、それからまた分からないようにごちそうをされたり、いくらかもらったりしたくなるのはあたりまえです。私だって、もしこの世に神がないと知ったら、上手にやります。とにかくそれこそ絶対に分からないように智慧を振るってやりますよ。だからいろんなやり方をするのはあたりまえです。だれも咎める資格はないのです。咎める資格のある人は、信仰している人よりほかにないのです。だからとにかく根本をぜんぜん無視して、結果だけを一生懸命にやっているといういまの文化は、実にナンセンスです。そういうことも結局はだんだん分かってくるのです。

 いま聞いた話ですが、今度『読売新聞』でも宗教的なことをやるようなのですが、これは『東京日日』が前例をつけたわけですが、それで成績が良いのでしょう。それから現在の外国映画、特にアメリカ映画は、宗教的のことを少し入れないと具合が悪いという話です。私はそれほど注意してなかったが、この間なにかに書いてあるのを見ると、かならず宗教的のテーマがあるそうです。ですからそのような具合に、世界的の風潮がそうなりつつあるわけです。まあ今度の仏教徒大会とか、いろんなああいうことも、その一つの現われだと思います。そうかといって、外国は日本と事情が違います。キリスト教一本ヤリですが、日本なんかは宗教デパートみたいなもので、世界的に例はないでしょう。日本とすれば、いまさら既成宗教に救いを求めるとかなんとか、そういった気持ちはほとんどないといっても良いくらいでしょう。特に青年層は、本願寺系の南無阿弥陀仏ということだけではおそらく満足できないでしょう。それでまた既成宗教の説き方は、あまりに現代離れがしていて、そうしてしかも理論ばかりですから、実際的の御利益とか、そういったようなものはないからして、信仰しようと思うと、どうしても新しい宗教よりほかに行き所がないわけです。

 このごろ新しい宗教がなかなか注目されてきたようです。これは非常に良い傾向ですが、そうかといって、ただ新しいから良いというわけではないので、それだけの力がなければ一時的で、やはり永久に救われるとか永久について行くということはないとすれば駄目なのです。その点においてメシヤ教は特殊の意味があります。あんまりうぬぼれるようなことを言うと誤解されますから、世間には言いたくはないのですが、信者の人は知ってましょう。それも要するに時の問題です。もうそろそろ……そういった宗教を求めるとすれば新しい宗教となる。それで新しい宗教のうちでは、やっぱりメシヤ教はどこか違っているというようなことで目標にされますから、従ってどこからいっても指をさされないようにますますしっかりと、要するに宗教の指導者的、模範的というような頭で、そういう気持ちで進んでいかなければならないと思います。要するにだんだん責任が重くなるわけです。私も、いままでやろうと思ったことが、だんだんやり良くなってくるわけです。なにしろいままでにないことをやるのですから、よほどこっちにそれだけの勢力なり地盤ができないと誤解されます。

 いま薬が毒だとか医者が病気を作るとかいうのも、小さなうちに言うと、やっぱり頭が変だ、そんなものに触れることはできない、ということになります。ところがそうとうの勢力ができてから言えば、なるほどそれはそうかもしれないというように、受け取り方がまじめに、要するに軽蔑的の考えでないわけです。本当にあれだけ大きくやっているのだから、やっぱりそれだけの理屈があるだろうという見方になってくるし、それがたいへんなものです。たいへんな違いです。

 それから、あらかた書けましたが、アメリカに対してはやっぱり英文が良いというので、英文でやるつもりですが、標題は『アメリカを救う』というのです。これはみんなびっくりするだろうと思います。アメリカで日本を救うというのなら、これはなるほどと思いますが、敗戦国でヒョロヒョロしているくせに、アメリカを救うなんて大それた、とんでもない、と思われるかもしれませんが、中を見ればなるほどと思います。本当にアメリカは危ないのです。その危ないのを危なくないように救ってやろうというのです。それが、ちゃんとした理論があり実績があって、そうしてやるのですから、癪に障りながらも往生しないわけにはいかないと思います。そう厚い本ではないです。なにしろ世界の舞台に第一着手としての顔を出すわけです。大見栄をきるというところまではいきませんが、顔を出してアッとさせようというつもりです。なにしろアメリカの人などが夢にも思わないようなことを書くのですから、文章でもよほど難しいのです。おまけに訳するにしても非常に難しいだろうと思ってます。だからできるだけ分かり良く書くつもりです。いま、「序論」とその次を読ませます。

(御論文『アメリカを救う』「序論」「病気とは何ぞや」朗読)

〔「著述篇」第一一巻八―一〇頁、第一〇巻六六〇―六六四頁〕

 話は違いますが、この間私は上野と三越の「院展」「青龍展」を見たのですが、あまり酷いので我慢できないから書いたのですが、日本画の主なる人に配ろうと思ってます。それは、日本画がなくなってきたのです。ほとんどなくなってきたのです。これはたいへんな問題です。というのは、やはり医学と同じで一種の迷信にかかってしまったのです。ほとんどみんな自殺です。それをかなり思いきって書いたので、いま読ませます。展覧会を見た人は分かるでしょうが、大問題です。

(御論文「今や亡びんとする日本画」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六五二―六五八頁〕

「昭和二十八年十月五日」 昭和28年10月05日