『御垂示録』二十五号 昭和二十八年十月一日(6)

〔 質問者 〕二八日に電報で御礼申し上げましたO支部長T(二九歳)は二四日帰幽いたしました。御礼申し上げます。胸と腹の御浄化をいただいておりましたが、一家四人死に絶え罪多きことを考えさせられます。

【 明主様 】まだ青年ではないですか。結核の再浄化ですか。やっぱりどこか間違ったところがあったのです。だんだん浄化は強くなります。

 よく御守護の電報で、電報だから簡単に、熱が高い、下痢がどうとか、どこが痛むということを言ってきますが、簡
単に治るような症状を書いてあります。どうも浄霊が割合に効かないようにみえるのです。やっぱり結局力が入るのだろうと思います。つまり浄霊してどうも治りが悪いというときには、たしかに力が入るのだから、できるだけ力を抜けばずっと治るようになります。なにしろ御守りから霊光が出て、掌《てのひら》から出るのですから、ちょっとでも力が入ると、霊光をふさいでしまうのです。やっぱり人間の力で神様の霊光をふさいでしまう、と言うよりか、薄くしてしまうのです。そこに気がつけばよいのです。ですから一生懸命に御浄霊をするということがいけないのです。前にも言ったとおり、一生懸命ではなく、逆に楽な気持ちでやるというほうがずっと効果があります。だから、思うよう……ということも少し変で、その人の思いようによるが、割合に治りが悪いというときには力が入っているのだということが一番です。浄霊しながら鼻唄でもうたいたいくらいの気持ちでやるのが一番よいのです。それで、神様にお願いするのはいくら一生懸命になってもよいのです。それはかまいませんが、ただ浄霊の場合には自分が治すのではないので、神様に治していただく、自分はその道具だから、そのつもりになっていればよいわけです。私などもやっぱりそうです。少しでも力が入ると治りが悪いのです。勿論お腹の光が出る場合にも、力というのは腕力ですが、それが出るわけですから、それだけ光が薄くなるわけです。だからよくお蔭諸に「一生懸命に御浄霊をさせていただいて、どう」ということがありますが、あれはどうも具合が悪いです。そうかといって、力を入れないで霊が通らなければいけないから、そこが難しいところです。通そうとすると力が入るから、力を抜いて霊を通すようにするのですが、それが一つの修行です。

「『御垂示録』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p236~238」 昭和28年10月01日