今度の台風もなかなか損害が大きいようで、今朝のラジオで聞いてみると、死者が六五〇人だそうです。行方不明というのは、やっぱり死んだのです。つまり死骸の上がらないのが行方不明なのです。田畑の損害が二五万町歩というのですから、この前の台風とだいたい同じくらいです。そういった数字に現われない損害もたいへんなものです。橋とか堤防とか、そういうものの損害は数知れずで、そういう間接的な損害もたいへんなもので、また復興するまでの間仕事を休まなければならないし、なんだかんだと、いろいろな損害を計上したらたいへんなものです。ところが水害対策といって、橋を直すとか堤防を築くとか海岸の防波堤を作るとか、いろいろやってますが、そういうことは膏薬張りでたいした効果はないし、それも、充分にやろうと思っても金がないのです。なにしろそれだけの費用を計上して、その予算は実際において全部の十分の一だそうです。だいたいの見積りが八百何十億というのです。それに対して予算が、一年の間に支出したのは八十何億というのですから、やっと十分の一になったくらいで、問題になりません。ですからどうしても台風が起こらないようにしなければならないのです。ところが、いつも言うとおり台風をつくっているのです。やっぱり医学と同じで、対症療法で、根本的ではないのです。ただ表面に現われたものだけを一生懸命に工夫してやっているだけであって、発生の因<もと>をなにもしないのです。ということは分からないからですからしかたがありません。それを私は教えようと思っていろいろやっているのですが、なかなか急の間に合わないので、当分はやっぱり、まだ何年かはこういう台風の苦しみというのはなくなりません。これは以前よりもよほど増えたようです。以前はこんなに毎年はあるものではありません。昨日の余興の演芸のときに志ん生が「自分らの若い時分にはこんな台風というのは聞いたことがない。風が吹いて雨がジャンジャン降ってくると嵐になるんだな、と言って、それですんでしまう。いまのように雨が降るというのは変だ」という話をしてましたが、それを聞いて私も思いますが、以前はこんな死者何百人とか田畑の損害が何十万町歩ということはありませんでした。それは人間の頭数が増えたからでしょうが、その数よりか被害のほうがずっと多いです。というのは、以前よりか汚す量が多くなったのです。だいたい風のほうは人間の想念の悪いのと言霊<ことたま>の悪いのが、霊界に曇りとなって溜まるので、それを吹き払うわけです。それから水で洗うほうは田畑の肥料を流すのです。昔は人糞だけだったからまだ少なかったが、いまは化学肥料とか人間を殺すホリドールとかいう凄いのができて、それが土に入って行くから、神様のほうではどうしてもそれを洗わなければならないから、そこで大雨を降らすのです。また近ごろの雨ときたら、馬鹿馬鹿しく量が多いのです。この間の京都での、大正地という池が氾濫して何十人という人が死んでますが、これは雨の量が多いためです。ですからつまり台風の起こる原因を人間がつくっているのだから、どうもしかたがありません。そういうことを書いた論文をこの次に『栄光』に出します。しかしなかなかそのくらいのことでは、たいした効果はないわけです。けれども神様がだんだんうまくやられますから、別にそう心配はいらないが、ただそれまでの間みんなが苦しんだり、いろんな被害を考えると、まことにかわいそうなので、つい心を傷めるのです。というのは、今日の文化というものは霊を無視しているのです。因が霊界のほうにありながら、因のほうを無視して結果の、現われたほうだけを一生懸命にやっているのだから、やはり一つの無知蒙昧です。この前読んだように「超愚」「超馬鹿」です。だからなかなか厄介なのです。
自然農法もだいぶ注目を浴びるようになってきましたが、それには今年は特に米の不作なども大いに刺激を与えたわけです。また今度の台風でも刺激を与えますが、今度の一三号で稲作の見積り減収一〇〇万石というのです。そうでなくてさえ、政府の発表が五八五〇万石ですが、それが一〇〇万石減ると五七五〇万石ということになります。ところが政府でなく地方的な見積りを総計してみると五千三百何十万石というのですから、政府のほうの予定と七、八百万石の開きがあるのです。そこで中間をとっても五千五、六百万石ということになります。ですから平年作が六三〇〇万石ですからたいへんな減収になります。豊作のときから比べると、最近の豊作が六六〇〇万石ですからちょうど一〇〇〇万石違います。人間のほうは毎年一〇〇万人くらい増えるが、米のほうはそういうわけですから、とにかくこの問題は大悲観です。ですからそうなればなるほど自然農法が普及するのが早くなるわけだから、一時は苦しくても実に結構なわけです。今日は短い時間でいくつもの項目がありますから要点だけのお話をします。
次は米国での救世教の発展ですが、これは先月からロサンゼルスに支部を作って活動を始めましたが、勿論すばらしい勢いで発展しつつあります。今度はサンフランシスコとシアトルにも非常に熱心な信者が三人ずつできましたから、近々やはり支部ができると思います。ですから三つの支部が大いに活動を始めるのは近いと思います。それにアメリカの他の都会にもできるでしょうから、一年もたったらアメリカの発展はすばらしいと思います。大本教のお筆先に「遅れただけは一度になるぞよ」というのがありますが、ちょうどそういうような形です。それで日本を救うには、とにかくアメリカに信者がたくさんできて発展するのが一番効果的です。なにしろ、いまの日本の各面におけるアメリカ崇拝熱はたいしたものです。
昨日もラジオの街頭録音で、学生がジャズをやるのは良いか悪いかという問題が出ましたが、ジャズというものは、少しも良いところはないのです。第一あれは音楽ではありません。私はジャズというのはアメリカの八木節だというのです。ですから音楽ではありません。ただ踊るときの一つの調子をつけるための、リズムというだけのものです。それが日本の若い人たちの間に非常にはやっているというのは、アメリカ崇拝の結果です。なんでもアメリカのものなら良いという流行的な、ごく単純な心理です。ですから化粧品の広告などを見ると、アメリカ式のなに、アメリカで大いにはやっている、というような広告しかありません。ところがまたいっぽうアメリカの女性が近ごろ顔の膚<はだ>が荒れるので困っているといって、最近の療法というのは、皮膚をヤスリでこするのだそうです。つまり皮をむくのです。この次はカンナでけずることになるでしょう。それはやはり化粧品に強い薬が入っているから荒れるのです。それを日本人がありがたがってまねするのですから、やはり超愚のほうです。
だから宗教も、アメリカに救世教の信者がたくさんできれば、日本人は一番にそれに食いつきますから、これが一番です。神様がうまくやられるでしょう。
美術館のことですが、美術館の来年の計画は桃山展をやろうと思います。桃山時代の良い物が集まっていて、いままであんまり出してないのです。前からそういう計画があったので、なるだけ見せないようにしたほうがよいから、出さないでいた物があるので、来年はアッとするような展覧会を見せようと思ってます。これは会期中ずっとやります。そのほかには六、七の二カ月を別館で近代名品展というのをやります。これは明治以来の日本の絵画、彫刻、美術工芸というものを開催しようと思ってます。これは門外不出の物が多いですから、日本での良い物は古い時代ばかりにできると思ったが、近代の明治以後にもこんなに良い物ができるかとびっくりするだろうと思います。それでだいたい名人の傑作品ですが、工芸品のほうは、蒔絵は松民<しょうみん>、松哉<しょうさい>、自得<じとく>、包美<ほうび>。彫金は加納夏雄<かのうなつお>、これはこの人よりほかに名人はありません。あとの人はふつうですが、夏雄のは、夏雄彫りと言っているくらいです。夏雄という人のいままで世間に出ているのは小さな物です。たいてい女の帯止めというような物ですが、私のほうにあるのは硯箱<すずりばこ>とか置物とかの大きな物ですから珍しい物です。彫刻では佐藤玄々<さとうげんげん>、平櫛田中<ひらくしでんちゅう>。堆朱<ついしゅ>は堆朱楊成<ようぜい>。陶器は板谷波山<いたやはざん>、明治以来の名人としては、なんといっても波山です。あとはみんな一段落ちます。竹細工は飯塚琅Ы斎<いいづかろうかんさい>。そういうようで、全部珍しい物が多いです。絵のほうは抱一<ほういつ>、是真<ぜしん>、雅邦<がほう>、芳崖<ほうがい>、栖鳳<せいほう>、鉄斎<てっさい>、大観<たいかん>、春草<しゅんそう>、玉堂<ぎょくどう>。そういう人たちの傑作品です。これは前に集めた物ですが、いまではとうてい手に入る物ではありません。それから八、九、一〇の三カ月は第二回の浮世絵展をやろうと思ってます。浮世絵はだれにでも分かりいいものですから、人気があるのです。浮世絵展のために見に来る人がだいぶあるようです。それで第二回をやろうと思ってます。それにいままで飾った物以外にそうとうありますし、それから持っている人で、なかなか立派な物を出してもらいたいというのがときどきあるのです。それで来年は今年とはなるだけ違った物を出そうと思ってます。そういうようなわけで、大いに注目を浴びるだろうと思います。美術館もだんだん世の中に知れてきて、観覧者も去年とは比べものにならないほど増えました。それから外人のほうにもだんだん知れたとみえて、増えてきて、毎日ほとんど幾人か来ない日はないくらいなものです。そういうようなわけで、来年あたりはいっそう評判になるだろうと思います。そうして美術館が宗教的に非常にプラスになっているのです。おまけにどっちかというと中流以上の人たちがなんとなく好感を持っているわけです。それでないと、やっぱり世間に多くある新宗教というと、なんだかインチキ迷信をすぐに思い出すわけです。そういう点において、これだけの美術館ということは、一般的のそんな新宗教とは違うという一つの信用と、それからまたそうとうの名士とか知識階級の人たちがだいぶ来ますから、その方面にだいぶしみ込んできたようです。この人がというような、あんがいな人が来てます。だからそういう方面によい影響を与えるということは、たいへん力強いわけです。なんといっても社会の指導階級の人を分からせるのが一番効果があります。このごろの言論機関の記事なども以前のような嘲弄的<ちょうろうてき>の書き方がほとんど消えて、どっちかというと良い書き方のほうが多くなってきましたが、こういうことはたいへん結構だと思います。この上は、ハワイ、アメリカなどに大いに発展すると、日本人は一度に頭を下げます。それも時の問題だと思ってます。あんがい早いのではないかと思います。
今度世界の科学者が五五人ですか日本に集まって、いろんな会をして、それぞれの説を唱えていますが、これは非常に結構なことで、とにかく日本もその方面では世界的水準になったわけです。それも因は湯川博士がああして名声を博したということが因ですが、それでまた湯川博士の刺激によって、日本でも若い科学者がずいぶんできたようですが、非常に結構なことです。それについて私はこれから書こうと思ってますが、それはいまの科学界の現状は、なんといっても物性論が研究の中心になってます。それで物性論というのは素粒子から次に入ったものですが、これはわれわれのほうで言うと、そう難しいことはないので簡単なことなのです。科学者などというのは、簡単なことでもややこしく言って、そのほうが値打ちがあると思っているのです。簡単に分かりやすく言えばよさそうなものだが、妙な理屈をつけてやってます。もっともそこまで行ってないからでしょうが、だいたい素粒子というのは物質の粒子のもっとも細かいもの、微小なものです。微小ではあるが、物質までにはゆかないものです。つまり物質の少し手前のものです。とにかく宇宙線の写真に写ったくらいのものですから、写真に写るだけの一つの個性は持っているのです。ところがそれから先に行くと一つの気体みたいなものになります。分かりやすく言うと、人間の病気の因は霊に曇りを生ずる、というその曇りの粒子なのです。それがまだはっきり把握できないために、物性……物の性質というような意味になっているのです。これはこういうふうになるほど粒子は細かくなるのです。けれどもつまりはっきりつかむことはできないが、いろいろな操作によってあるべきはずだというわけです。だから物性論というのは非常に変化があるというのです。いろいろな性質があるというのです。甲の場合の物性論と、乙の場合の物性論とは性格が違うのです。それで所によって性質が違うというので、今度の科学者の会では「場」ということを言ってます。場によって違うということを言ってます。元は一つですが、ある物を通すときに変化するのです。つまり病気と同じで、医学では病気によって治し方が違ってますが、われわれのほうでは何病気でも同じ方法です。これ(掌)から出るものは一つで、何病気でもそれで治るというわけです。物性論の研究をみても、これと同じことになってます。ところが、たとえそういった粒子を発見しても、それが役に立たなければなんにもなりません。そこで役に立つということは、それから発する力です。そこで今度も外人で量子力学ということの講演をしてます。そこで量子力学が結びつかなければならないというのです。ですからやはり浄霊というのも一つの力学です。力です。ただこれだけは知っておかなければなりません。それは、科学で作る力は限度があるのです。いくら顕微鏡が精巧になっても、一ミリの中に粒子が何万個、何億万個といっても、そういうように数えられればそれが限度ですから、それだけの力しか出ません。原子爆弾がいかにすばらしい爆発力があっても、それは局部的のもので、地球全体を壊すということはできません。それは物質で作る力だから有限力なのです。ところが神様が作る力は無限力なのです。最近ロサンゼルスではすばらしいお蔭話が出たのですが、そうすると私の力がロサンゼルスまで、なんでもなく行くのです。これは無限力だからです。この無限力というのは時間空間を超越したもので、それは神様の力です。だから現代の科学というのは、結局有限力の研究です。いずれある程度まで行けば、頭を下げるよりしようがないのです。その物性論というのは、霊界と現界、霊<れい>と体<たい>のちょうど中間になっているのです。物性論が進めば要するに科学は宗教に入ってくるのです。科学が宗教に入ってくればもう科学ではなくなるのです。私はこれから書こうと思っているが、科学が物性論に入り、その先はどうだ、またその先はどうだ、とどこまでも行くと、結局神霊……神様の所に行くわけです。これはなかなか説明し難いのですが、できるだけ書こうと思ってます。とにかくいまは科学と宗教の結び目に来ているわけですから、それをあらかじめ知っておけば、どんな学者が質問してきてもなんでもありません。だからいまの科学はちょうど、やっと幼稚園を卒業したくらいのもので、これから小学校に入るというくらいのところです。この間京都での開会式のときに湯川博士が「いまの科学界はちょうど暗闇の中でみんながどっちに行ったらよいかと、これから行く道を見当づけているようなものだ」と言ってますが、うまい言い方だと思って感心しましたが、ちょうどそういうような状態です。ですから科学者の説によると「これから研究することが非常に多い」と、これは日本の科学者も言ってます。また他の学者には「そうではない、物性論を進めて行けばよいのだ」と言うのがいますが、これは暗闇の中で見当をつけているのですから分かるわけがありません。だから私はその暗闇の中で探し求めているものはこれだ、と書くには書きますが、しかしあの人たちの目や耳に入れるということはできないのです。それは、現代の少し有識者は新宗教というと馬鹿にして、まるで、なにをたわけたことを言っているかくらいにしか思わないのですから、これはなんにもならないが、とにかく信者さんだけに知らせれば、信者さんは信ずるのだから、将来これが拡がって行けばよいのです。なにしろ私の説く説というのは古往今来ない説ですから、早く分からせようということは不可能ですが、しかしいずれは分かるに違いありません。幾人かの学者に分かれば、それは燎原<りょうげん>の火のごとくに世界に知れるに違いありません。というのは、各国の学者というのはそれを探し求めているのですから。結局そういう具合につきつめてゆくと、宗教と科学とは同じことです。むしろ科学が求めていたものが宗教ということになります。しかし宗教といったところで、いままでの宗教ではそこまでは行っておりません。いままでの宗教では科学のちょっと先くらいの所です。だからむしろその力によって負けてしまうのです。ですから私の説というのは宗教ではないのです。しかし宗教の分野に入るべきものですから、そこで書くわけです。