秋期大祭御教え
九月二十七日
今日でお祭りも終わりですが、今度の秋の大祭は特に意味があるのです。この神仙郷が完成した最初の秋の大祭なのです。前にも話した通り、ここは地球のちょうど真ん中になるのです。中心なのです。これが講和以前では変な目で見られますから、そんなことを言うことはできなかったのです。いまだから言いますが、ここが地上天国の模型で、模型がここにできて、これがだんだん拡がって行って世界的になったときが地上天国なのです。そういう意味とすれば、非常に重要な意味になるわけです。だからして、だんだんそういうふうに拡がって行くのですから、非常に結構です。しかし良いほうはそれで良いけれども、悪いほうは……拡がるに従って、汚いものは取り除かれることになるのです。ですからその結果戦争も起りましょうし、それから原子爆弾なんかによるぶち壊しもあるでしょうし、とにかく世界的の大掃除が始まるわけです。それについて、いま多賀という人の奥さんに仏霊が憑ってきて、さかんに明主様にお詫びしてくれということを言っているのですが、これは本当なのです。いろんな各仏教の開祖、教祖……それが、中には予期したのもありますし、予期しない霊もあって、いよいよ仏界がなくなるというについて、いままで良いと思ってやったことはたいへんな間違いがあった。だからお詫びして、どうか今度の地上天国の御神業……昼間の世界になる御神業を手伝わしてもらいたいというのが続々と出てくるのです。これは今度『地上天国』に出ます。最近はいろんな神様が、お祝いお慶びにずいぶん出てきます。天照大御神様もお祝いに来られたのです。それから月読尊<つきよみのみこと>、伊邪諾尊<いざなぎのみこと>などです。天照大御神は日本では最高の神様としてますが、主神<すしん>ではないのです。つまり太陽神です。宇宙というものは太陽ばかりではない。月もあるし星もあるし地球もありますから、その全体を握っているのが主神なのです。それで、私は主神の仕事をさせられているわけですから、そこでそういったいままでの偉い神様も、これからこのメシヤ教のために大いに働くわけです。そんなような意味のことをしきりに言ってますが、そんなようなわけで、これから本当に現界的に始まっていくのです。現界的といっても、現界の奥のほうに始まっていくのです。本当に現界に始まるのは五、六、七と、それが揃ってからが本当の現界です。で、それについての第一段がこれから始まるわけです。第二段が熱海になるわけです。熱海の地上天国が完成すると本当の現界的になります。いつも言う通り、ここ(神仙郷)が霊界になるのです。現界の霊界です。で、熱海は現界の現界です。
今度京都の嵯峨という所にちょうど適当な土地があって、それをいよいよ契約だけしましたが、一万八〇〇〇坪あるのです。大きさはちょうど良いのです。もっと拡がるかもしれませんが、いまの所はちょうど良いくらいの所です。それで、箱根が「五」で、熱海が「六」で、京都が「七」になるわけです。ですから日本的に五六七という形が備わったわけです。箱根が山で、それから熱海が海で、京都が土です。それで五六七です。ですから、土だからして京都は平らなのです。これは私はごく平らな所で池のある所というのを注文してましたが、ちょうどそういう所が決まったのです。これはどうせ神様がやっているのですから自由自在です。時期時期において現われてくるのです。その位置がちょうど、釈迦堂……嵯峨のお釈迦さんを祀ってある所ですが、これは去年最初にお参りした所です。それから去年講話をした法然院は、法然上人の住まわれたお寺ですが、法然上人は浄土真宗の開祖です。で、法然上人から親鸞上人になって、それから蓮如上人となる。ですから日本における阿弥陀さんの本拠です。すると釈迦堂と阿弥陀さんの所との、その間が今度の土地ですから、私のほうは観音さんですから、そこでちょうど観音、阿弥陀、釈迦と、こういう形ができたわけです。できたといって、形になったわけです。それで、昔から弥勒三会<みろくさんえ>という言葉があるのです。弥勒が三人会うということですが、「弥勒三会の鐘の音」とか「弥勒三会の暁」とかいう言葉があるのですが、弥勒三会になって、それから弥勒の世が始まるということになっているので、その形ができたのです。
だいたい京都という所は、つまり仏界になるわけです。元は神様の所だったのですが、神様が引退されて仏の世に渡されたというのがいままでの仏の世ですが、その世が京都にできているわけです。そこで京都が仏界で、その仏界がいよいよ仏滅になって、そうして今度の弥勒の世になるのですから、そういう意味が根本です。そういうような意味がこれからだんだん現われてきますから、そのつもりで見ていれば分かります。で、今度は京都に、庭園でも建築でも純日本的にやるつもりです。どういうふうにやるかというと、だいたい京都のいろんな建物でも庭園でも純日本式で、とにかくその意味において、京都という所は実に良い所ですが、しかし日本文化的であっても、現在見るとバラバラなのです。少しも統一がないのです。というのは、歴史的にも時代時代で特殊な文化様式になっているわけです。というのは、太平が続かなかったのです。やっと太平が続くようになったのは徳川期からです。それまでは奈良朝時代から平安朝時代、鎌倉時代になって鎌倉のほうが開けたのです。それから東山、桃山となって、その都度文化ができたのです。それが京都にバラバラに現われているのです。奈良朝時代は仏教美術です。これはたくさんお寺があって、お寺美術が充分出ています。それからその次の平安朝時代にできたのは貴族文化です。まあ、やんごとなき御方が、みんな御殿の奥深く、歌を作ったり……あの時分にいろんな有名な歌人が出て、非常にさかんだったのです。それから美術も、絵画、彫刻、全部藤原氏です。非常に良いですが、そうかといってあまりに貴族的に偏っているために、一般大衆にはどうも良く合わないのです。その次が東山時代の、つまり足利です。これは金閣寺、銀閣寺と、なかなか豪華なものができましたが、これは言わばそのときの主権者が楽しんだ、将軍文化です。その次が桃山ですが、桃山は秀吉が作ったようなものですが、ただ絢爛たるものであり、そのまた反面に茶の湯という、非常に侘<わび>たものを作った。これは非常におもしろいのです。で、相反する特徴のある文化が作られた。それから次にできたのが徳川時代で、元禄です。華やかなすばらしいものです。そのために現在一番残ってます。いまの歌舞、音曲<おんぎょく>です。それから美術に関したものです。そういうものがいま一番残っていて、しかもさかんです。それと茶の湯です。で、元禄文化というものは、ようやく権力者の手を離れて、民衆……これは町家の金持ちの贅沢力を満足させたものです。しかしこれは割合短かったのです。その時分にあまり贅沢にしていたというので幕府が弾圧しましたが、これはすばらしいものです。光琳なんかもその時分に現われた。それからようやく江戸時代になって、民衆の楽しめる文化ができたのですが、京都はそこまでいってないので、ほとんど権力者の贅沢、楽しみと、そんなような文化が時代時代によって、散り散りバラバラになっているのです。そこで私は今度京都の地上天国は、そういった古来からできた文化を総合して……組合ということは、良い所をとって、総合調和させたようなものをこしらえようと思っている。そうしてその上にだいたい現代感覚にピッタリしたような、そういうものを造ろうと思ってます。理屈からいうと立派ですが、これはなかなか難しいものです。つまり日本的の、いままでできた秀れたものをできるだけ活かして、欣然たる一つの二〇世紀的のものを造ろうと、こういう理想なのです。なにしろ神様が手伝っているから立派なものができると思ってます。それで真善美が揃うわけですが、だいたい時期がそういったようなところまで来たわけです。けれども日本だけではない、世界を救わなければならないのだから、ごく最初の一段階、一つの区切りといっても良いですが、そんなようなわけで神様は、だんだん拡がり、形も整うというような具合にいくわけです。そんなわけで京都は極力日本的に造ります。それから熱海は、これはぜんぜん西洋式なのです。今度の会館、展望台、美術館と、日本的のものはほとんどないくらいです。火水土と言いますが、外国……西洋は水になるのです。水の文化です。だから熱海はそれになるわけです。つまり六です。火水土のうち、水が西洋になって、火が日本になるのです。土が東洋になるわけです。それで箱根は元になりますから……中心になるから、ここは西洋風と日本風と両方できているわけです。
今度完成した美術館ですが、これではちょっと狭いのと、催し物のときなんか別に見る所がないと、いま陳列してあるのをいちいちしまってまた並べるというのは、非常に手数がかかって具合が悪いので、今度小さいが四、五十坪の別館を造るつもりです。ちょうど萩の家<はぎのや>の後ろ手……女の人の宿舎を移築して、その跡に五間に八間という美術館を造ろうと思ってます。これは催し物……特別展ということに使おうと思っている。来年の五月にできるつもりですから、最初の特別展覧会は浮世絵の展覧会をやるつもりです。そういうふうに計画を立てると、また浮世絵の良い物が集まってくるので、実に神様は気が利いているのです。すばらしいものが出てくるのです。
とにかく神仙郷の向こう側は西のほうで、やはり西洋風のものばかりです。日光殿は日本になるわけです。そこで「日光殿」と名前をつけたのです。
それから新宗教もいろいろありますが、新宗教といってもメシヤ教は別です。これはナンバーワンとされてます。それは断然切り離してますが、あとは日蓮宗の派が最近非常に活躍しているのです。これは少し目立つようなものは、みんな日蓮宗の一派です。特に霊友会の分かれが非常に多いです。で、いままでこういうことはなかったのですが、近ごろ日蓮宗の一派の活躍というのはものすごいです。ところがこれは非常に意味がある。というのは、法華経二十八品ある、その二五番目の観音普門品……これは法華経……法の華を咲かせて実を生らせるというので、実が観音さんなのです。そこでメシヤ教の元は観音さんです。元といっても始まりですが、観音さんから始まった。そうすると今度現界的に観音様が出られるという意味において、日蓮宗で法華経の法の華を咲かせるという、そういうお仕組みになるわけです。ですからある時期までは非常にさかんですが、それから今度は華が散りますから、そうして実が生まれるという順序になるのです。ですからお気の毒ですが、そういうような時が必ず来ますが、それによって日蓮上人も大いに救われるわけです。精しく話をするとなかなかおもしろいのですが、その話はそのくらいにしておきます。
それから昨日の余興のときに、内海突破君がここに来て、二〇分ばかりの予定だったところが、なんだか気持ちが良いのでウカウカと、四〇分か五〇分になりましたが、どうもここに来ると気持ちが良いということを言われてましたが、これはそのわけであたりまえなのですが、それでああいう人たち……芸能人社会にはメシヤ教はなかなか認められてきて、ボツボツ信者になる人もあるのです。まだまだ信者になる人も増えるでしょうが、しかしああいう人たちが信者になるということは、たいへんな力なのです。というのは、話なり歌なりの言霊を発するのに、その人たちはそれだけ身魂が浄まってますから、それから発する言葉によって大衆の魂を浄めるという働きになります。それで、これは耳から浄めるのです。耳から浄化するのです。それから美術館とかこういった地上天国……これはだんだん箱根から熱海になって京都にもできるのですが、これは目から浄化するのです。それからいろんな文章……新聞、雑誌というのは、文字から浄化する。こういうのは一つの浄化の方法になるわけです。ところで、病貧争絶無の世界というのは、すべてそういった苦しみ悩みというのは浄化されるのです。そうすると人間が浄化されるべき汚いものを持っているから、そこで人間がその汚いものを除るに従って、浄化の必要がないから、そこで苦しみがなくなってくるというわけです。だから病貧争絶無の世界というのは、浄化の必要のない世界、浄化がなくなる世界です。それがミロクの世です。で、世の中のあらゆる苦しみは浄化して……ここで知っておかなければならないことは、いままでは苦しみによって浄化されたのです。で、中には求めて苦しみをして、そうして浄化される方法もあるのですが、宗教的の難行苦行はそれなのです。つまり浄化……魂を磨く、そのためにいろんな難行苦行……山に籠<こも>るとか断食するとか水を浴びるとか、いろんな苦しみをして、その苦しみで穢れを減らそうというのです。ですからバラモンなんかは、野獣みたいに難行苦行して悟りを開くというのです。悟りを開くというと魂が磨けるから、穢れが除れる、いろんなものが見える、というので、そういう方法をとったのですが、これは夜の世界だとしたらしかたがないのです。ところがメシヤ教はそういった難行苦行でなく、楽しみながら浄化されていくという方法をとっているのです。それでいま言ったような芸能とか美術とか、そういった、みんな楽しみつつ浄化されるというのとは、たいへんな異いです。これはつまり夜の世界のやり方と昼の世界のやり方との異いさです。だからメシヤ教には難行苦行はないのです。だからいつも言うのは、苦心惨憺なんて言葉はないのです。だからこういったお庭だとか美術館を造るのは、ずいぶんご苦労なさったでしょうと言うから、私は返事に困るのです。ご苦労なんてほとんどしないのです。楽しみ楽しみやったのです。ところがいままでのことは、なにかやるのに苦心惨憺し苦労をうんとしなければならなかったのです。だからそこの異いさがある。浄霊するにも、いままでのように力を入れてうんとやらなければいけないというのは、いけないのです。力を入れないで、気楽にすればそのほうが効くというのだからあべこべです。だから苦労したりいろいろすることだとうまくいかないのです。
この間「院展」と「青龍展」に行ってみましたが、これはふつうの人には分からないが、おもしろいのです。絵が苦心して画いてあるのです。苦心して画いてあると、その苦悶がそこに表われますから、それから受けるから、こっちで見ていると苦悶を感じるのです。それは駄目なのです。それは良い気持ちで楽しみながら画いてあると、それがやっぱりこっちに写りますから、やはりこっちも楽しめるのです。それが、やはり一つの迷信みたいになっているのですが、それがさかんに努力し苦労してやるので、それが画面に表われているからおもしろくない。今度展覧会の批評を『栄光』に出しますが、これもずいぶん驚くほどの書き方ですが、これは現代画家の一、二流所に配布しようと思ってます。彼らはとんでもない間違いをやってますから、そうして目を醒まさせようと思ってます。
それからもう一ついま書いているのは、この間も言った通りアメリカの病人の多いことです。だからアメリカを救うということをしなければならない。もうあらかたできましたが、これはアメリカの大統領とか有識者の方面に配るつもりです。これもちょっと驚くでしょう。日本のくせに生意気な、アメリカが日本を救うというのなら話は分かるが、敗戦国の日本のくせにと驚くだろうと思います。しかし読めば分かります。これは日本人も驚くだろうと思いますが、これはそういうわけだからしかたがないのです。