八月二六日
病気について注意したいことがあるのです。私がいままでいろいろ言ったことをそのまま用いれば良いが、これはどうも人間の一つの癖ですが、人によっていろいろ……誇張したり縮めたりするのです。たいてい誇張するのです。それでとんだ間違いがあるのです。特に日本人はそうらしいのですが、物事をありのまま考えたりしない一つの癖があります。というのは、私はいろんな報告を聞きますが、その報告が人によってみんな違うのです。非常に掛け値を言う人と、割引をする人と両方ある。これは一つの例ですが、私の山をやっている者が二人あるのです。すると一人は非常に内輪に悲観的に言うのです。一人のほうは、拡げて楽観的に言う癖がある。それで私は両方のちょうど間をとっているのです。こういう癖は非常にあるのです。人によっては馬鹿におおげさに言ったり、加減したりする。以前ある人で、いまは信者の幹部になっている人ですが、なにかの報告のときに、あの人がああ言うのだから、たいてい三割くらい割引をして思えばちょうど良いと、よく言ったものです。そういうような具合で、病気についてもよくあるのです。
最近聞いた話ですが、私が「大いに無理をしなければならない、無理をしたほうが健康になる」ということを言っているのですが、これは健康の場合には……ちょうどスポーツマンがレコードを作るような具合で、無理をしただけずつは健康になるのですから結構ですが、病人は違うのです。肺病なんかの場合に「安静にしてはいけない、大いに運動しなければいけない」と言うそうです。病人の場合はとても大儀で苦しいのです。そういう具合でかえって浄化が強過ぎて衰弱しますから悪いのです。要するに根本は自然が良いのです。大儀で起きているのがつらい、寝たいと思うときは寝たら良いし、それからもう非常に具合が良くて寝ていてはつらい、起きて歩きたいというようなのは、起きて歩けば良い。要するに自然です。自然というのは、自然農法ばかりではないのです。病気に関しても自然です。だから食べたい物は食べたいだけ食べれば良い。ところがよくいままでの習慣で、食べたい物を、よく毒だからいけないとか、食べたくないのに、それは病気に薬になるから食べろというのは間違いです。食べたいのは身体が要求しているのですから……咽喉が乾いて水を呑むようなものですから、そこで要求している通りにやれば良いのです。そこでいまの、寝るとか起きるとかも身体の命ずるままにやれば一番良いのです。それを、どうも人間は自然がいけないようにいろいろ教育されてますから、かえって自然に逆らって苦しんだり、我慢したりすることが良いと……医学なんかは非常にそういうやり方になってますが、いま言った通りどこまでも自然に、心のおもむくままにやることを心得ておくと良い。また滑稽なのは、昔私はリンゴを食べなかったが「明主様はリンゴは召し上がりませんが、リンゴは身体に悪いのですか」と言うから「そうではない、私はつゆ気の果物が好きで、リンゴはつゆ気がないから食べない」と話したことがある。それをどう間違えたか「明主様はリンゴを召し上がらないのは、リンゴは悪いのだ」というような宣伝ができたのです。ですからメシヤ教信者はリンゴを食べないということになった。実に滑稽なのです。リンゴでも柿でもなんでも、みんな神様が人間の食べる物に作ってあるのですから、リンゴがうまいという好きな人は大いに食べて良い。ところがもっと滑稽なのは、最近聞いた話で「リンゴは医学のほうでは薬になる」と言ってますが「医学では薬になるというところをみると、つまり薬になるのだ。するとリンゴを食べると薬毒が残る」と、こう言うのです。だからリンゴを食べてはいけないと言って、もらったりしても、リンゴを腐らせるのです。これはそうとう古い信者なのですが、そこまでいくと、実になんと言って良いか分からないです。そういうような具合でいつも言う通り常識です。すべてうまいという味は人間に必要だから神様は作られたのです。だからまずい物を我慢して食べてはいけない代わりに、おいしい物は大いに食べて良い。それから、よく偏食がいけないということを言いますが、偏食がいけないということはないのです。あれは偏食がその人に大いに必要だからするので、それで良いのです。で、その必要がなくなればふつうになるのです。よく子供なんかで、線香を食べたり壁土を食べたりするのがありますが、これはその人に虫の霊が憑いているとか、あるいは虫に生まれたことがあるとか、そういうようなためなのです。だからだんだん浄化していくにつれて、そういう霊はやはり人間に溶け込んでしまいます。つまり人間と同じ清さの霊になりますから、そういうことはなくなる。だからもしそういうことを矯正するとすれば、その本人を刺激しないように柔らかにやるくらいで良いのです。で、人によっていろいろあります。そういったものでなくふつうの食物でも、魚が嫌いだとか臭い葱とか、そういった物が嫌いだとか、いろいろな癖の人がありますが、みんなそういった霊的関係と、必要によってそういう癖があるのだから、そういうのはやっぱり信仰を長くしていれば、だんだんふつうになるわけです。
一昨日奈良の薬師寺の管長で橋本さんという人について、ちょっとおもしろいことがあります。この人は絶対菜食なのです。それで私の所で昼ごはんをあげましたが、カツオブシも入れてはいけない。それでいてそうとう肥っているのです。実に顔色が良いのです。あれなら言うところはないです。ふつうの人で、あのくらい顔色の良い肉づきの良い人はないです。まるで昔の絵に画いた大僧正というような、実に顔を見ただけでも明るい、なんとなく親しみを感じる良い顔なのです。で、そういった菜食一方でいかに……菜食のためもありますが、生まれてからまだ薬を服んだことがないそうです。だから病気をしたことがない。で、頭も非常に良いです。ずいぶん仏教に関したこと……美術品なんかに、なかなか明るいのです。私もたいへん参考になりました。ですから菜食はいかに良いかということが分かったのです。その話の際に私が一八のときに肺結核で絶対菜食を三カ月やった。だからいまでも菜食をすれば身体の具合が良い。どうしていまはそういう良い菜食をなさらないかと、側で聞いた人がありますが、私は言ったのです。菜食をすると非常に身体の具合が良いことと、冬でも非常に温かい。その時分はユタンポを入れなければ寝られないのが、菜食をするとそういうものはいらないのです。よく肉食をしなければ身体が温まらないというのですが、それは一時的なものです。それから酒を飲むと身体が温まると言いますが、菜食をすると身体の芯から温まるのです。だから良いのです。しかし菜食をしていれば気持ちが違うのです。あんまり不平不満がなくなる。怒らなくなります。諦めが良く、それから無抵抗になって、すべてに満足するという気持ちに変わります。それは実に著しいです。それですからして、非常に苦しみがなくなるのです。つらいことがなくなる。我慢がし良いのです。ですから根気がなくなる。だからああいった坊さんなんかには、ごく良いです。ところが私などは、まだこれから大いに闘わなければならない。闘うといっても悪魔との闘いです。だからして大いに勇気や胆力も必要だし、それからいろいろこれから医学を革命するという一つの闘いになりますから、おとなしかったらそれをやり遂げられないから、やはり肉……動物性の食物も必要です。私は九〇までは大いに仕事をするつもりですから、九〇過ぎたら大いに菜食をすると言ったのです。そういうような具合で、そういったように大いに闘ったりしない人は、なるべく菜食を多くしたほうが身体には良いし、無論長生きもするわけです。ついでですから、私は薬師寺は禅宗だと思ったのですが、そうではないのです。薬師寺は法相宗というのです。橋本さんという人はその管長です。これは日本における一番古い仏教です。ですから他の……真言宗とか真宗とか禅宗とかいうのは、その後にできたものです。それで法相宗は奈良時代にできたものですが、その時代に一番はやったのは法華経なのだそうです。法華経というのは、前からお釈迦さんが説いたからあるには違いないが、大いに弘通したのは日蓮上人かと思ったら、そうではない。奈良時代に大いに法華経を弘めたのです。だから日蓮宗は最後なのです。そうしてみると、その時分のお経というのは、たいてい法華経です。美術館にもありますが、法華経が多いです。私が持っているお経が少しありますが、結局法華経です。で、やはりお釈迦さんが説いたうちで法華経を、最後に説いた一番重要なお経ということになってますが、日本でも古い時代からそういうことになっているのです。
それから九分九厘と一厘ということを始終言ってますが、九分九厘と一厘について、できるだけ解りやすく書いたのです。
(御論文「Αの文化」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六一九―六二一頁〕
ちょうど医学に世界中塗りつぶされたようなものですが、そこに私がだんだん九分九厘の医学をやっつけていくのです。で、九分九厘と一厘ということで、一番の問題は医学なのです。これさえ本当になれば、無論貧乏もなくなりますから、戦争なんかもなくなるのです。医学といっても、問題は薬なのです。人間の身体から薬を抜けば、ぜんぜん病気をしなくなるから、貧乏もなくなるし、争いを嫌いになるから戦争もなくなる、ということですから、九分九厘と一厘ということの一番重要な根本は、医学の革命なのです。これでミロクの世ができるのです。ではなにゆえにそういった医学にしろ薬にしろ、そういった間違ったものがあるかということと、それに対して神様との関係はどうだ、という疑問が起りますが、それをいま『文明の創造』の中に書いてあるのを読ませますが、それですっかり分かるわけです。おもしろいのは、いままでの宗教は残らず悪を非常に非難したり、排撃している。そうして善一方で説いているのです。これは宗教に限らず、道徳でもなんでもそうなってます。ところが今度私が説くのは、悪も肯定し悪は必要だったということと、薬は神様が人間を瞞して服ませたのだということを書いてあるのです。これが大乗の説き方なのです。それはどういうわけかと言いますと、いままでは主<す>の神様の教えは説かなかったのです。主の神様が善と悪と両方こしらえて闘わせて、文化というものが今日のように発達したのです。いままでの宗教の開祖なんかは全部善のほうの神様なのです。それからいろんな悪のほうの、悪魔はこっちのほうなのです。これが始終闘っていた。闘っているので文化が発達してきた。これが闘わないで善ばかりだと、人類は原始時代と同じで少しも発達がなかった。そのために主神は両方作って闘わしたのです。それでいままでの宗教は善の神様だから、こっち(悪のほう)を悪く……徹頭徹尾非難したのです。ところが主の神様の教え……私の教えは両方説くのです。ところがこれ(悪)も必要だった。たいへんな良い働きをしたのです。しかしいつまでもこうしているとミロクの世……理想世界はできないのです。今度は……悪のほうはぜんぜんなくなるのではないが、こう(善のほうが悪よりちょっと上に)なるのです。こう(善のほうがずっと上に)なるのはずっと先です。いままではこう(悪のほうが上に)なっていたのが、善のちょっと下になる。これで良いのです。これで立派にミロクの世になるのです。善が勝てば良いのです。これ(悪)がこう(善)追い抜くから、人間に苦しみや不幸やいろんな禍ができるのです。こう(善が上に)なると、これ(善)で止めてしまいます。本守護神と副守護神があると、本守護神が勝てば良いのです。副守護神のほうは、間違ったことや悪いことばかりさせようとして、いろんな策略をするのです。そこで本守護神が負けるからそうなるので、本守護神が勝てば良い。ある程度までいくとキュッと押さえつけるのです。だから善のほうが悪よりいくらか勝てば良いのです。世の中も、いま言ったように善のほうが勝つとなれば良いのです。そうすると争いはなくなるのです。善のほうは争いを抑えますから……。いままでは悪のほうが争いをやっていたのです。また、悪のほうは大いに貧乏にしようと思ってます。しかし、悪のほうが負ける期限が来たのです。悪のほうの任期は終わったのです。いままでは悪とか医学とかいうのは、必要だったのです。しかしもう必要がなくなったのです。それを根本に説いてあるのです。そのうちの薬と悪ですが、それについての一節ですが、いま読ませます。
(御論文『文明の創造』「九分九厘と一厘」朗読)〔「著述篇」第一〇巻三二八―三三二頁〕
これはちょっとおもしろいと思いますから読ませます。
(御論文「悪の追放」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六二二―六二四頁〕