八月二五日
このごろ聞いた話ですが、病気なんかについて私の言うことを間違う点があるのです。それはこういうことの間違いがあるのです。私が「人間の健康には無理をしたほうが良い。無理をしなければ丈夫にならない」ということを前から言っているのですが、これは健康の人に言っているので、病人に言っているのではないのです。ところが病人に対して「楽にしてはいけない。無理をしても身体を動かさなければならない」と、こういう人がいるのです。これはたいへんな間違いです。結局根本は自然が良いのです。起きるのは大儀だ、寝ていたい。というのは、寝ているのが良いのです。自然なのですから寝ているようにする。それから身体に元気が出て、もうじっとしていられない。寝ていられない。どうしても起きたい、歩きたい。というのは、もうそれで良いのですから、そうすれば良い。あくまで自然でなければならない。ですから病人に対して言うことと、健康な人に対して言うこととは、逆なことがたくさんあるのです。それを一緒にしてしまうのが一番困るので、あくまで自然です。一番滑稽なのは、昔私がリンゴを食べなかった。すると「明主様はどうしてリンゴをおあがりにならないのです」と言うから、私は「リンゴはうまくないから……つゆ気がないから……私は、つゆ気があるものが好きだから」と、その時分はさかんにミカンを食べたものです。それがたいへんなことになって「明主様がリンゴをおあがりにならないのは、リンゴは毒だから」と言う、そういうことがあったのです。ずいぶん私は取り消したが、いまもってあるのです。そういうのはまだ良いが、こういう人があるのです。これは、地方の者ですが「リンゴはよく医者やなにかで薬になると言っている。だから医者なんかはリンゴを食えと言う。リンゴが薬になるということをみると、その薬毒の害をこうむる。薬の気があるというのだから、リンゴを食べれば薬毒の害がある」と言うのです。そこまで来ては、なんと言って良いか分からない。これも自然に反するのです。リンゴでも柿でも、神様は人間に食べさせるために作ってあるのですから、リンゴがいけないとか柿がいけない、なにがいけないということは、たいへんな間違いです。リンゴというのは、人間が食べるためにできているのです。つまり味というのがたいへんに必要なものなのです。ですから農業のほうは自然農法と言いますが、医学のほうでも健康については、やはり自然が良いのです。食物も自然、それから運動とか動作というものも自然です。また熱があったり風邪を引いていろんなことがあっても、立派に仕事ができる、それほど苦痛ではない、という人は仕事をしても良いです。私はずいぶん風邪引くとか熱があるとかしても、かまわず仕事をしてます……それほど苦痛ではないから。それはそれで良いです。そういうふうにあくまで自然です。それで、起きているのは嫌だ寝ているほうが良い、というのは、寝て良いのです。そのことで、医学のほうで間違っているのは「起きていてはいけない、絶対安静だ」と言って、フウフウ言って寝ているのです。私の本にも書いてありますが、ピンピンしているのが、健康診断で肺に曇りがある、絶対安静でなければならないと言って、だんだん弱らせて命まで亡くしたという人がありますが、これは反自然だからいけないのです。そういうわけですから、この点を間違っている人は、大いに訂正しなければいけないと思う。
それから話は違いますが、昨日奈良の薬師寺の管長で、橋本という坊さんが訪ねてきました。薬師寺は、私は禅宗だと思っていたら、そうでない。法相宗というのです。それはどうでも良いですが、管長の橋本さんですが、実に顔色が良いのです。かなり肥ってますが、実に人相が良いのです。まるで絵に画いた大僧正みたいな感じです。頭も非常に良いです。仏に関して……特に仏教美術に関して、なかなか深いのです。薬師寺の由緒だとか、それからいろいろな仏教美術に関することを聞きましたが、たいへん参考になりました。ただ驚くべきことは、非常に顔色が良いのです。それから肥り具合といい、皮膚の具合といい、まあ理想的です。いまどきあんな人は見たことがないです。実に気持ちが良いです。明るい顔でして、話の具合でも頭の良い点、なかなか……私もずいぶん頭は悪くないつもりですが、話があの人はよく合うのです。それで聞いてみると絶対に菜食なのです。こっちでお昼をごちそうしましたが、カツオブシもいけないと言うのです。カツオブシを止して別にこしらえたのですが、あれをふつうの人がみると、栄養が良いなと思いますが、ところが実際はカツオブシも駄目だから、いまなら栄養不足というわけです。だから実際栄養ということは、いかにでたらめかということが分かるのです。で、良く聞いてみると、生まれてからまだ薬を服んだことがないそうです。また病気もしないから……。もっともああいうのは、小僧のうちに禅宗寺なんかにやられて修行するのです。で、沢庵に麦メシかで、それは禅宗寺というのは酷いものです。それで叩き上げられるから、病気なんかしないのです。ですから菜食というものは、いかに良いかということが分かるのです。その話について、私が一八のとき、結核で医者より見離されたときには、絶対菜食です。カツオブシも止したのです。三カ月絶対菜食にして……これは私の本にも書いてあります。ただ菜食は精神的に非常に違うのです。菜食しているうちは、すべて……欲望というものが非常に薄くなるのです。なにごとにも満足するのです。「これではいけない」というのでなく、「これで結構だ」というような気持ちになるのです。ですから昨日も、いまはなぜ菜食をしないかと言うと、たいていなことは諦める。覇気……そういうものが薄くなる。私は始終悪魔と闘って、これからも大いに悪魔と闘わなければならない。それで、いろんな……文明の革命だとか、そういうこともしなければならない。おとなしい、諦めの精神が多くなっては困るから、それで私は九〇まではやっぱり肉も魚も食べ、大いに闘争力を強くする。九〇より先は絶対菜食にして……われわれのことだから、ブラブラするわけにいかないから仕事をしますが、仕事もそういった欲望の強いものでなく、風月を楽しむとか、適当なことをやるつもりだと言って話したのです。そんなような具合で、健康上からいうと菜食が一番良いのです。ですから私はいまでもできるだけ偏しないのです。野菜とそういった動物性のものと、だいたい半々にしてます。ところが料理をする人は、ごちそうと言えば、なんでも魚や肉だと思って、そういうのが多過ぎて困るのです。それで始終小言を言っている。私は野菜を多く食べなければ固まるのだから、野菜を多くするように考えてくれと始終言っている。栄養は野菜だが、文化生活をする上において、あんまりおとなしすぎても仕事ができないから、そこで動物性のものを食べるのです。それを心得てやれば、ちょうど良いわけです。で、競争心は結構ですが、それがもっとひどくなると闘争心です。闘うほうです。だから肉食人種は闘争心が強いわけです。いまアメリカで一番困っているのは胃癌です。日本は割合に癌は少ないです。これもアメリカ人は菜食が足りないためです。これは今度書いてアメリカに出すつもりです。
それからこれは『文明の創造』の中の「健康と寿命」というのですが、寿命というのは、人間が年をとったら菜食にすればよい。薬を服まないから薬の気がなくなる。そうしてまず八〇過ぎくらいから菜食にすると、一〇〇以上は必ず生きるのです。昨日も、官休庵いうお茶の宗匠で、いま十二指腸潰瘍といって青い顔をして、酒が好きな人ですが酒を一滴も飲まず、煙草ものまないで、食物も制限していたから、原因は薬だということを言ってやった。それで私の経験を話してやった。私は四〇まではほとんど薬詰めであったが、薬の害を知ってから今年で三六年ですが、一滴も薬というものを服まない。それでもまだ薬毒はありますから、始終自分で浄霊してます。そのために年々丈夫になってます。いま七〇ですが、暇があれば庭で木の枝を切ったり、いろんなことをやってます。重労働ではないが軽労働と重労働の間くらいのことをやってます。それでみんなは、くたびれたくたびれたと言ってますが、私は別にくたびれたということはないのです。どういうわけかというと、やっぱり薬毒がなくなったせいです。だから人間は薬毒がなくなれば非常に丈夫になるのです。いまでも私は足が早いのです。若い者と歩くときは、私は加減しているのです。若い者が追いつかないのです。どうした、年の加減だろうといってますが、あべこべなのです。それでまた薬毒がなくなると頭が良くなります。頭が良くなるから、仕事がたくさんできます。それについて『文明の創造』の「健康と寿命」という一節をいま読ませます。
(御論文『文明の創造』「健康と寿命」朗読)〔「著述篇」第一〇巻一三一―一三四頁〕
それからΑの文化、主神とか主と言いますが、丸にチョンを打って、われわれは「ス」と読んでますが、これはあらゆるものを簡単に表わしているのです。それをいまちょっと読ませます。
(御論文「Αの文化」朗読)〔「著述篇」第一〇巻六一九―六二一頁〕
それから『文明の創造』の中の一つで「九分九厘と一厘」ということを書いたので、それを読ませます。
(御論文『文明の創造』「九分九厘と一厘」朗読)〔「著述篇」第一○巻三二八―三三二頁〕
これについて知らなければならないことは、いままでの宗教で悪を肯定する宗教はないのです。全部悪を憎み……憎むのは当然ですが、悪だから悪いけれども……そうして攻撃……敵のように宗教自体が言っていたのです。また悪のほうでは宗教を悪く言って、そうして神はない……それはいまでもさかんに言ってますが、神があるという奴は迷信だと、そんなようにして両方を闘わせたのです。というのは、いままでの宗教の開祖というのは、善のほうの神様です。善だけの神様と、いまのような悪のほうの……邪魔するサタンと対立していた。ところが両方を造られたのは、真ん中にいる主神なのです。そこで主神の見方からいうと違ってくるのです。そこで私のいまの、悪が必要であった。医学という、要するに薬というものは人間を弱らすもので、人間を弱らせなければ文化というものはできなかった。というように説いてあるのは、主神から出る教えです。要するに善悪の根本を説いているのです。そこで分からなければならない。いままでのは善だけの教えです。そこで悪を説かなければならない。悪というのは主神が作ったのです。主神はこういう必要があって悪を作ったのだ、こういうわけで許したのだ。善と悪とを対立させたこと、そういうことを『文明の創造』の最初に説くのです。しかし悪は文化の進歩にある程度まで必要であって、天国、要するに地上天国に必要で、ある程度の文化を作るまでの必要であって、それ以上はいけない。だから悪の期限が来たということも説いてあります。それで悪というものは必要であったということと、悪の期限が来たということで、始めて根本が分かるわけです。だから医学というのは、人間を弱らせるために必要であったというように説けば、ちょっと医者のほうでは怒ることもできないのです。しかし今日ではもういけないのです。もう弱らせることは止める時期が来た。だから止せと、こういう意味です。ですからこれを知っていれば、どんな質問が出ても困ることはないです。その意味を話しすれば良い。いままでは結構だ、結構だがもうしかし人間を弱らせる方法はすんだ。と、そう言えばちょっと文句は言えない。それを説いてあります。最初は拳固を握っても、読んでいるうちにだんだん溜息に変わります。