教集25 昭和二十八年八月六日(2)

 それについてハワイ、アメリカですが、ハワイは今年の三月から樋口さんと安食さんが行って開拓を始めたのですが、今度はあっちでそうとうに大きな支部ができて、とてもこっちに報告を出せないくらいに忙しいのです。またその発展のすばらしさは、これこそは予想もつかなかったくらいです。そういうわけで、至る所支部とか出張所というものがドシドシできてます。あっちで新しく信者になったハワイの人で、夢中で働く人がずいぶんできてきました。だからこの分でゆくと、どれほど発展するか分からないくらいで、また非常に早いのです。いろんな報告を見ると、病気などでもかえって日本よりもよく治ります。よく治るとともに信者になる人も、簡単に信者になります。ではどういうわけでそうかというと、神様は、あえて特別に力を与えられるわけではないのです。むしろ日本のほうが中心ですから、神様は力を与えられるが、ただ日本は邪魔が多過ぎるのです。ハワイは邪魔がないのです。むりのままに受け入れるのです。「病気が治る、それはたいしたものだ」「医者で治らなかったものが治る、それはすばらしい」と、そのまま受け取るからドンドン発展するのです。ところが日本となるとこじれてしまっていて、実にしようがありません。なにしろ新聞雑誌でさんざんいろんなことを言われて、それに噂が尾鰭<おひれ>をつけて拡がったり育ったりしますから、そのためにみな誤解してしまってますから、救世教でいくら治そうと、どんなお蔭があろうと、なかなかそのままは承知しないのです。ですからお蔭話にもそういうことがたくさんあります。いったん治って、それなら信じそうなものだが、それが再発したりまた新しい病気が出ると、やっぱりお医者のほうに行ってしまうのです。だからちょうど惚<ほ>れた女がついているようなものです。どんなに美人でも、どんなに言っても、やっぱり元の惚れたほうに行ってしまうのです。そういうようで始末が悪いです。それでさんざんやって懲りて、やっぱり救世教がよいということが分かるのですが、それまではやっぱりいろいろなややこしい経路をへる人が多いのです。それでも信者になる人はよいですが、分からなくてアノ世に行ってしまう人があります。ですからとにかく日本のやりにくいということはたいへんなものです。救世教も最初のうちはハワイと同じようにおもしろいようにできました。その時分にはなにも問題はなかったのです。問題というと、こっちで作ったようだが、こっちにはなにもないが、先で問題を作ったのです。問題をこしらえていろんなことで悪口を言ったのです。ですからそれからだんだんやりにくくなってきたのです。そういうようなわけで、日本とハワイの違いさはたいへんなものだと思ってます。それからもう一つは国民性にもだいぶあります。ハワイはそうでもないでしょうが、アメリカは特にそうだと思います。アメリカにも今月から樋口さんがロサンゼルスに行くことになってますが、それについて非常に驚くことがあります。というのはこういう点が大いにあるようです。すなわちアメリカの人はアメリカ風と言いますか、そういった気風というものは非常に単純なのです。どんな偉い人でも、日本人みたいに変なこだわりがありません。良ければいいではないか、治ればそれでいいのだという、すこぶる単純です。右か左か早く決まりがつくのです。つまりイエス、ノーの判断が非常にはっきりしているのです。ところが日本人は、そんな新宗教などで病気がそんなに治るということは変だ、やっぱり精神的にそういう具合にうまいことを言われてウッカリ乗って、それで治るのだという、考えをややこしくもってくるのです。日本にはそういうことがあります。そのためにアメリカがあんなに発展したのでしょうが、これは日本ばかりでなく、古い国の一つの非常に悪い癖です。ヨーロッパなどもそれが大いにあります。今度の英国の戴冠式などを映画で見ても、それは何百年前のいろんな形式を尊んで、それを大いに誇りとするような点が見えるのです。もっとも伝統的にそういったような誇りをもって、国民の忠誠とか植民地の尊敬ということに対しての一つの利用という意味でしょう。そのためにかえって進取的な、新しく進むとか進歩するということが、非常に力が弱くなってしまいます。フランスなどもそうですが、これはフランスに行ってきた人によく聞きますが、フランス人はよく次のように言います。「アメリカ人というのは、美術とかそういうものはよく分からない、つまりあれは田舎者だ」と、田舎者視しているのです。つまり古い国というのは伝統を重んじ、伝統にこだわって、どうも進取的の気分が少なくなっているということが、かえって国の発展を妨げているという点があります。ですから日本人などもそういった気分が多分にあるから、病気を治したり新宗教などというと、どうも区別したがるのです。それで古い宗教から離れるということがとてもできないのです。これは始終あることですが、救世教の宣伝する場合などに、その家族の一人が奇蹟的に病気が治っても、自分の所は先祖代々南無阿弥陀仏だから、それは結構だが、その信仰にはいるということは自分にはできないとか、自分は何代前から南無妙法蓮華経だから他の新しいものは駄目だと、そういうことが大いにあります。だから日本で発展するには非常な困難があるわけです。つまり理屈どおりにゆかないわけです。ところがこれは簡単に考えると、新宗教でもオマジナイでもなんでもよいから、治ればよいのです。治って仕合せになればそれでよいので、他にはなにもありません。日本人は簡単なようで、進歩的考えが起こりにくいのです。そういう人はないことはないが、ごく少ないのです。それについて昨夜これを見たのですが、非常におもしろいのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十五号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p12~15」 昭和28年08月06日