教集24 昭和二十八年七月二十七日(1)

 医学については、分かるようにいろいろな説き方をしてますが、『医学革命の書』に出す原稿で、これはまた別の面から説いてみました。人によっては、かえって分かりよいと思って書いてみました。

(御論文『医学革命の書』「科学で病気は治らない」朗読)〔「著述篇」第一一巻二〇六-二一〇頁〕

 固苦しくて学校の教科書のようでしたが、少しおもしろいのを読ませます。

(御論文「御守から出る光波」〔およびお蔭話〕朗読)〔「著述篇」補巻三、六三〇-六三五頁〕

 これは科学的にいっても分かりますが、最初に読んだのにあった微粒子というものが、科学で証明できるといっても、科学の理論です。しかし理論でも、なお分からないことがありますが、それについてこれを読むと、なお分かります。

(御論文「超科学」朗読)〔「著述篇」第一一巻五七三-五七六頁〕

 これは大学以上の講義です。いま読んだとおり、いまの科学というものは実にお粗末なものです。他の科学はだいぶ進んでますが、特に医学に限っては、まるっきり子供瞞しくらいなものです。それに貴重な命を任せるのですから、その危ないことといったら、実にヒヤヒヤします。大本教のお筆先に「今の世は井戸の端に茶碗をおいた如くで、危なうて神は見ておれんぞよ」とありますが、うまいことを言ってます。それでいまの医学は黴菌説で、あらゆる病原は黴菌としているのです。それで黴菌というものは非常に小さいものと思っていますが、医学で見ているのは非常に大きなもので、まだまだどこまでも小さいものです。さっき読んだとおり「至大無外、至小無内」というので、小さいも大きいも無限なのです。大空にたとえてみれば、大空の大きさというのは限りがありませんが、これは科学者も分かっているとみえて研究しませんが、しかし顕微鏡の研究のことを考えると、顕微鏡で黴菌を研究するというのは、大空の囲いがどこかにあるに違いないと研究しているのと同じです。ただ黴菌の小さいのを発見すればよいと思って顕微鏡でやっているのですが、どこまで行っても発見されるはずがありません。それは大空の壁と微生物の小さいのと同じことなのですから、無駄なことを命がけでやっているのですから、もったいない話です。つまり掌から出す光はレントゲンが通らないということは、光が細かいからです。レントゲンのほうはもっと粗いのです。そうして力というものは細かいほど強いのであり、粗いほど力がないのです。ですから何馬力といって、馬力というのは、馬の力ですが、馬というあんなに大きなものの力ですから知れたもので、それがだんだん細かくなるに従って強くなります。ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。それでレントゲンのほうは粗いからして通すことができないのです。つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。だからうまいことを言ってますが、素粒子といって、「素」というのは粗いということです。素粒子というのは細胞の小さいものです。それで物性子というのは、物の性質の原になるもので、これは目に見えないものです。これを見ようとして実験科学をこれからやるのですが、これをつかまえることはできようがないのです。だからどうしてもこれをつかまえるには、顕微鏡で見えない世界にはいるよりしようがないので、その世界というのは宗教の世界です。この宗教の世界といっても、いままでの宗教というのがごく下の世界なのです。だからいままでの宗教は科学よりかもっと粗いのです。科学が素粒子を発見したとすると、いままでの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。なぜといって、各宗教ではいま病院を造ってますが、ということは、もう科学にお辞儀をしているのです。科学との戦いに負けているのですから、負けたほうは粗いのです。つまり宗教のほうは素粒子まで行ってなかったのです。結局科学との戦いで、科学がいままでのように進歩してないうちは、宗教のほうが勝ったのです。昔からの古い宗教はとにかく多くの人を救えたのです。ところがいまは宗教のほうが力がなくて科学のほうが力があるから、そこで無神論者が増えるのです。それは科学をやれば無神論者になります。科学を勉強した人だと無神論者になりますが、それはそうなるのがあたりまえです。そこで科学をやっつけられるのは救世教よりないのです。これは素粒子よりずっと細かいのです。レントゲンで通すことはできないのです。それでレントゲンの光線を作るのにたいへんな苦心をしてます。先日新聞に出てましたが、レントゲンを扱っている技師は、何十年とやっていると、レントゲンのために命までがなくなっているのです。とにかく四〇年やれば駄目だと言われてます。そういうように命がけで作る光線より強いものですが、それをさっき読んだとおり裸で七秒間で書いて、レントゲンより以上のものを作るのですから、こっちのほうは、ちょうど軍備で言えばアメリカと朝鮮よりもっと違います。そこで科学でも哲学でも、ちょうどいまは物性子、目に見えない世界の手前に来ているのですから、どうしてもその先を分からせなければならないのです。それでこの論文ができたら湯川博士に送ってやろうと思ってます。湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、結局科学も窮極は神だということを言っている人ですから、割合に分かると思いますが、そうかといって、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、体面上具合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、これからの窮極に対するヒントを与えるということになりますから、よけいな無駄をしなくてすむわけです。そのヒントを得るということはどういうことかというと、研究を変えるということです。しかし研究を変えるということは、医学は科学では駄目だということです。他のことは科学で結構なのです。いろんな機械にしろ、原子科学とかはどこまでも進歩させなければならないのです。ただ人間は他の物質と違うということが科学ではまだ分からないのです。というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすということは、人間以上の力を持たなければできないのです。ところがそこらにある物質上の発明、電気や動力というものとは、ぜんぜん段が違います。ところがそういうものと人間の体、人間の病気、生命を同じに見ているところに、たいへんな間違いがあります。その認識さえできれば、科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやればそれでよいのです。そして救世教の浄霊ですが、浄霊で治すということも、ある期間までです。つまり浄霊とは薬毒をとる方法ですから、薬毒を入れないようになれば浄霊の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえ分かればよいのです。と言ったところで、そう簡単に薬毒を抜くこともたいへんです。あなた方が折癖などでずいぶん膿を出して、もう毒はないと思っても、それからまだまだウンと毒が出てくるのです。それはどんな人でも、自分であきれるはど毒が出てくるものです。私などもそうで、ここ(側腹)に固まりがあって始終浄霊してますが、これが五〇年前の肋膜の薬毒です。それから始終頭が痛くなりますが、これが三七年前の歯の薬毒です。ですからどんな人でも薬毒をとるとしても、一生涯でとりきれる人はまずありません。三代目くらいでようやくとれるくらいです。すなわち薬が毒であることが分かってから、孫の代になってすっかりなくなるくらいなものです。しかしすっかりとれなくても、働くのに差し支えないくらいに健康になればそれでよいです。私などもそんなに毒がありながら、ふつうの人より健康で働いているのですから、そう悲観することもありません。そこでこれを知らせ信じさせるのが大仕事なので、それが救世教の第一番の仕事なのです。

「『御教え集』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年07月27日