教集24 昭和二十八年七月七日(2)

 それから美術品の集まるわけですが、この間歌麿の霊が憑って、非常に喜んで話をしたのですが、それを例として美術品の集まる理由ですが、これはいつも言うとおり不思議なほど良い物が集まるのです。浮世絵は昨日から陳列替えをしましたが、浮世絵は去年のいまごろはまるっきりなかったのです。その後一年もかからないうちにああいうように良い物が集まってしまったのです。それでいまはここの浮世絵は日本で一番だそうです。陳列も博物館の専門の人が来て飾ったのですが、博物館の人がそう言うのだから間違いありません。実に不思議なものです。その原因を書いてみました。

(御論文「美術品蒐集の奇蹟」〔およびお蔭話〕朗読)〔「著述篇」補巻三、三三一-三三三頁〕

 いま読んだようなわけですが、私の欲しい物が世の中にはまだたくさんあります。中には売ると言ったのが売らなくなったり、それから欲張ってどうしても手放さない人があるのです。そういうのは霊のほうでは売るようにしなければならないから、経済的にいろんな手段で苦しくして売るようにしてしまうのです。だからどうすることもできません。たまには「美術館に永久に残るのなら値段はともかくぜひ買ってもらいたい」というごく奇特な人もありますが、たいていな人は救世教は金があるのだからと、つけこんで、大いに高く売ってやろうということもチョイチョイあります。石黒忠篤という人の息子か甥で、ヨーロッパに行っていろんな美術品を買ってきて、日本で初めてですが、それを芝の西洋骨董屋に陳列してあって、私の所に持参した二、三点を買い込んだ人が紹介者と一緒に来て、ポンペイから掘り出した土に画いた油絵で、なかなか良い物ですが、値段を聞くと一二〇万円と言うのです。それではとにかく置いていってくれ、と置かしたのです。それから二、三日たって、私のほうのそのほうの係の者が来て、この春行ったときに七〇万円の値段だったと言うのです。買うなら四〇万円くらいでしょう。四〇万円なら買うと言って、いったん返してくださいと言うのです。七〇万円でも高くてなかなか買い手がなかったのだそうです。ですから人を馬鹿にしてます。そういうことはたくさんあります。救世教というのは金がたくさんある。それもどうせ信者からもらったような金だから、取るだけ取ってやろうという腹です。しかし私は逆に言ってやろうと思っています。自分で儲けた金ならいくら高くても買ってやろうと思うが、信者が心血をそそいだ零細な金だから、アダやオロソカに買えない。相場だったらよいが、少しでも高かったら、信者に対して悪いから、相場以外のものなら絶対に買えない、と先方の考えと逆に言ってやるつもりです。私はよくそういうことを言うのですが、こういうのはまだ穏やかなほうで、もっとびどいのが多いです。こういうのはふつうの道具屋ではないのです。なぜというと、大学出のインテリなのです。それでスでもコンニャクでもまるっきり食えない道具屋のやり方です。そこで冷水三斗を浴びせてやりたいと思います。だからそういうつけこむやり方だったら、とうていこれから取り引きはできないから、まじめにやればよいが、さもなければ駄目だからと言ってやるつもりです。それでだんだん分かってくるとまじめになるのです。そういぅのは一つの教育をする必要があります。そういうようで、世の中にはまだ欲しい物があります。中には、これは良い物をたくさん持っている所ですが、主人が死んでしまって、主人の弟は売りたがっているが、婆さんが頑張っているのです。主人が死んで、自分が跡を継ぐようになってからそういった品物を手放すということは面目にかかわるから、自分が生きている間だけは絶対に売らないでくれと言っているのです。ですからそういう人は長生きはできないことになるのではないかと思ってます。そういうようで、なんだかんだと売らないようにしても、結局売らざるを得なくされるわけです。それは神様がされるのではなくて、そこの祖霊が霊界で早く自分が手柄にしようとして売らせるようにするわけです。だから私は心の中では欲しいと思っていても、別に手段はとりません。ただ待っているのです。だからみんなが、どうしてこんな良い物が集まりましたか、と驚きますが、つまりこれは人間業でないという証拠です。それで聞いてみると、良い物というのはなかなか手にはいらないものだそうです。だからやはり神様がこの美術館を造り立派にしつつあるわけです。

「『御教え集』二十四号、岡田茂吉全集講話篇第十巻」 昭和28年07月07日