教集21 昭和二十八年五月十五日(1)

 再浄化について、いままでも話ししようと思ったが、あんまり話のしよいことではないので、つい言わなかったのです。だんだんこれから再浄化が多くなりますから、そこでどうしても本当のことを言わなければ追いつかなくなってきたので、本当のことを言います。本当は再浄化というものは起るべきものではありません。しかし起るべきものではないと言っても、ある程度はやむを得ないが、再浄化で命がなくなるということはありません。再浄化のあるのは、ほとんど結核ですが、医者から見放されてぜんぜん死ぬに決まったような者が助けられるとしたら、その命の恩はたいへんなものですから、いかなるものを犠牲にしても、命の代わりとして感謝しなければなりません。感謝するということは奉仕しなければならないのです。それをボヤボヤしているから、神様は横を向かれるのはあたりまえです。だから再浄化が起るということは、再浄化が起るようにしているのです。それでいまの人はやっぱり医学迷信のために、お医者でなおったのは非常にありがたがるのです。ところが信仰でなおったのは有難味が少ないのです。というのは、信仰でなおるべきものではないと思っているから、「なおったのは時節が来たのではないか」あるいは「いままでたくさんのんだ薬が効いてきたのではないか」というような解釈をする人があるのです。ところがお医者のほうでなおったのはじき忘れるが、神様のほうは、そういう理屈に合わないことは絶対に許されないのです。しかし、いままでは和光同塵で、少しは許されてきたのですが、これからは絶対にお許しにならないのです。大本教のお筆先に「神厳しくなると人民穏かになるぞよ」というのがありますが、うまく言ってあります。それについてはっきり書きました。

 (御論文「信仰の合理性と再浄化」朗読)〔「著述篇」第一一巻五〇六-五〇九頁〕

 命にかかわらない病気ならそうでもないが、命にかかわるような病気がなおれば、命をいただいたのですから、なおってよいあんばいだと金儲けだとか相変わらずなことをしていると、せっかくくださった命を自分のことに利用してしまうことになるので、つまりいつも言うとおり、自分の命だと私有財産みたいに思ってしまうので、そこにたいへんなくい違いがあるのです。以前に、鉱山をやっている人で、そうとうに年をとった人ですが、心臓病で命のないところを助かったのです。それで自分は一生懸命に神様のために働くと口では言っているが、いつの間にか山に行って、しばらく見えないからどうしたかと思っていると、その人はそうとうの資本家で経営者であるから鉱山に行っていたが、具合が悪くなってあわてて帰ってきて、治療をしてもらうと良くなって、今度はよいだろうと思うと、また行ってしまうのです。そういうことがたびたびあったので、とうとう私は「あの人は駄目だからほうっておけ」と言っておきましたが、それからしばらくして死んでしまいました。この人などはあんまり命を粗末にするのでもったいないくらいなものです。こういう人はめったにありませんが、これに似たようなことはよく聞きます。お蔭話などにもよく出てきますが、難病がなおって、そうして神様はたいしたものだと言いながら、この次再浄化で悪くなると医者に行くのです。そうしてさんざんやってもらって、今度は前よりも悪くなって、やっぱりこれは神様にすがろうと来る、それで今度なおると、そこで初めて分かるのです。実に世話がかかるのですが、よくそういう人があります。だからそういった大きなお蔭をいただいて命を助かった人は、これから大いに注意してやるのです。そうすれば再浄化はよほど少なくなります。そこで万一再浄化が起った場合には、なぜ起ったかという意味を、いまのようなわけだということを話してやるとよいです。だいたいどんな病気でも、なおればそれよりか重い病気が起るわけはありません。第二の起り方ですから、軽くすむわけです。ところが再浄化のほうがかえって重い場合が多いのです。ということは人間のほうが間違っているからです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十二号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p219~221」 昭和28年05月15日