教集21 昭和二十八年四月二十七日(5)

▽前節から続く▽

 美術館も日本の有識階級や外国などにもだいぶ分かってきたようですから、今年はそういう人たちがずいぶん来るだろうと思ってます。外人が日本に来ても日本美術が見られないで、かえって油絵などの美術館のほうが多いです。というのは、まずいつでも見られるような常時美術館ができたにはできたが、ブリヂストン美術館と近代美術館とどっちも油絵専門になってます。私はこの間、近代美術館の館長の岡部長景<おかべながかげ>という人がときどき来るので話をしましたが、ブリヂストンと隣り合っていながら、ブリヂストンと同じような物を並べているではないかと言ったところが、それは考えているが、それでもまあまあお客が来るからと言ってました。しかし人によっては日本や支那の美術品を見たがるのがいたが、ないのでしかたなしに我慢しているわけなのです。それでこの間博物館で支那陶器を横河という人の寄付で、特別展として開催したので行って見ましたが、品物は一〇〇〇点というのですからずいぶんありますが、ずいぶん酷い物ばかりです。並んでいる物が支那の台所の道具というのが多いのです。日本でいうと皿小鉢というような、お膳に並べる物です。まあ道具屋が持ってきても、買うのは五、六点しかありません。一般人は知らないから、支那の物だから良いだろうと思っているでしょうが、あんまり酷過ぎるので驚いたくらいです。ところがなにしろ博物館は予算が足りないので、欲しい物も手に入れることができないのです。ですから博物館関係の人がこっちを羨<うらやま>しがってます。「役人の仕事は駄目ですよ」とか「やっぱり役所の仕事はうまくいきません」と言ってます。だから公平に言って博物館と箱根美術館と比べると、紳士とサラリーマン、重役と平社員くらいの違いと言ってもよいです。私はいつも博物館というのは国家の国辱なんだと言ってますが、博物館の人は「まったくです」と言ってます。

 特にアメリカ人などは日本の美術の展覧会を見て、去年のサンフランシスコの展覧会と、いまやっている大都市巡回のとを見て、日本美術はすばらしいものだということが分かってきたので、美術鑑賞熱というものが出てきたのです。だからだんだん箱根美術館が知れるに従って、そういう人たちがいずれはずいぶん来るようになるだろうと思ってます。それで西洋の古美術から中国、朝鮮、日本美術というようにいろいろ検討してみると、実際、断然日本美術は優秀なのです。実に日本人の美術に対する感覚は世界一です。そのうちで私が一番世界的に見せたいのは仏教美術です。つまり彫刻です。彫刻というものは、すばらしい高い地位にあるのです。外国の彫刻と言えば、まずギリシアです。実物は行って見たわけではないが、写真などで見ても結局写生です。それからヨーロッパのローマ時代からそうとう出ましたが、一番はロダンとかダ・ヴィンチです。と言ったところで写生です。日本の仏教美術というのは理想です。霊的に言えばそうではないが、ふつうに言って高い理想を表現したものですから、その芸術家の感覚と、その表現の技巧というものはすばらしいものです。それで私は京都や奈良のお寺に行ってそういう物を見ても、本当に世界美術の最高峰の物ということを感じます。ですからどうしてもそれを日本の誇りとして大いに世界的にしなければならないと思ってます。嵯峨<さが>の美術館はそれを方針にするつもりです。ところが神様はちゃんとそういうような事情にもしたわけです。というのは、京都のお寺はほとんどやって行けなくなったのです。そうとう有名な寺でも財政難に陥って維持ができなくなったのです。ですからそこでいまでも目立たないように売ってます。お寺も売らざるを得ないのです。そうでないと檀家のほうに御用金が行きますから、檀家は税金などで苦しんでいるから、お寺の維持には届かないので、それではなにか売ったらよいだろうというので、檀家が承諾するのです。それで檀家承諾書というのがついているのです。それでも檀家がある寺はよいのですが、勅願寺というような檀家がない寺がたくさんあるのです。ですからそういう所の生活というのは実にかわいそうなものです。しかしそんなことを言ってもだんだん行き詰まるから、ポツリポツリと出しているのです。ですから私は将来日本美術のためとお寺を救うためにも仕事をしなければ ならないということになります。ですから仏滅と言いますが、なるほど、霊的でなく物質的にも仏滅です。お寺に飾る仏もなくなりますから本当の伽藍堂<がらんどう>です。だいたい嵯峨にはそういう美術館を造るつもりです。熱海の美術館は大きいですから、そういった仏も大いに紹介して、日本の彫刻美と仏画を世界中に知らせたいと思ってます。

△御講話おわり△

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p202~204」 昭和28年04月27日