教集21 昭和二十八年四月二十七日(2)

▽前節から続く▽

 それについての例ですが、映画のときに長唄の吉住小三郎<よしずみこさぶろう>という人がよく来て、私の隣に並んで坐って映画を見て いるのです。ところがそれを気にする人があるとみえるのです。こうだろうと思うのです。「なんだ、明主様の隣に 芸人風情が坐って見るなんて、どうもとんでもない話だ、もったいない」というのでしょう。まあ悪い考えではないので、良い考えですが、それで小三郎さんの所にチョイチョイ無名の投書が行くのです。あなたははなはだ良くないから遠慮してもらいたいというのです。最初の一回か二回のときは歯牙<しが>にはかけなかったが、チョイチョイ来るので、小三郎さんも信者の中にそういう万が一人でもあると自分も気持ちが悪いからと、このごろは来ないのです。それで投書する人の考えは、「なんだ、奥さんが長唄の稽古をしている師匠ではないか、それが明主様の隣に坐っているのは、はなはだ申し訳ない」というのだろうと思います。それで私をアンボンタンかお坊ちゃんのように思っているのです。それがいけなければ私は許しません。それはどういうことかというと、いまの音曲界では一番の王者としての長唄で、その長唄界の大御所たる存在が吉住小三郎という人です。あの人は芸能者の第一人者ですから名人です。それであの人だけは、人が頼みに行っても絶対に応じないのです。放送局でもあの人には手こずっているのです。この間、放送局の三十何年かの記念にちょっと出ましたが、ああいうのはうんと頼んでやって承知させたのです。だから 公<おおやけ>でない会などには絶対に承知するものではないのです。ところが救世教の余興のときには必ず出るのです。だからこれは余興に対する一つのすばらしい値打ちを増すようなわけなのです。小三郎さんという人は、名前だけでもそれだけの働きをしているのです。ですから私は、神様はうまい人と関係をつけたと思っているのです。それからもう一つはそういった芸能人、美術家、あるいは文学者、作家という人たちは、私は特に貴く思っているのです。そういう名人というのは代わりがないのです。だから国務大臣というような人よりもずっと上なのです。大臣などは辞職すれば代わりはいくらでもあるのです。吉田内閣でさえ四、五年の間に任命した大臣は一〇〇人近いでしょう。だから前にイギリスの有名な人が「大臣を任命するのに相談や手数はいらない。議場に紙つぶてを投げて、当たった人を大臣にすればよい」というのです。そのくらいですから、はなはだ失礼ながら代わりはいくらでもあるのです。ところがああいった美術家とか芸能人の名人はすぐに代わりがないのです。そうでしょう、俳優でも少し偉いのはその代わりはないのです。ですからいまは歌舞伎俳優で困っているくらいです。だからいまは、そういう人こそ大いに優遇しなければならないと思ってます。なぜというと、とにかく社会で一般大衆を楽しませる技能を持っているのですから、非常に結構なのです。私はいつも映画を見るたびにそう思うのですが、映画俳優も脚本を作る人も、われわれにこういった娯楽を与えてくれるということは、大いに感謝してよいと思います。ですからそういう意味において、小三郎さんは大いに優遇しなければならないのです。それやこれやで、始終私の所に来ますから、長生きをさせようと思って中風とかそういうようなことが起らないように浄霊してやっているくらいなのです。だから映画を私の隣で見るくらいは結構なのです。それを遠慮しろと強制する人は小乗的考えなのですから、ケツの穴がごく狭いわけです。だからその人の耳にはいった場合には、大いに考え違いを神様にお詫びして、もしかその人が本当に悔い改めて、勇気があれば小三郎さんの所に行って詫びるのが本当です。私が考え違いをして、たいへん間違ったことを言ったから、御勘弁願いたい、どうかこれからぜび来てもらいたいと、よく詫びるのです。それができるくらいなら立派な人ですが、それはなかなかでき難いでしょう。そういうようで小乗的の考えというのが一番困るのです。それで小乗的考えというのは自分では非常に良いと思うのです。そうして結果はかえって逆になるのです。それからそういう形のみに捉われたことを、よほど考え違いをしないようにしなければなりません。神様のやることは、人間の常識と言っても、本当の常識なら良いが、世間的の常識で考えて分かるような浅いものではないのです。それよりか、自分のことを始終考えなければならないのです。自分は行いが間違っていないかということを考えなければなりません。よけいな人のことを考えるということが間違いの元です。だからただ明主様にもったいないとか御無礼だということは、神様のほうの考えと違う場合が往々あるのです。だからすべて大乗的に考えるということが肝腎なのです。これは救世教に限らず、信仰している人はどうも小乗的考え方になりすぎるのです。これは昔からいろいろな宗教がそういうようになっているのですが、どうもそういうような伝統的宗教観念が出やすいのです。だから粗衣粗食の地獄的生活を神様はたいへんお喜びになるように思っている宗教観念というのが大いにありますから、その間違いを直そうと思っていろいろ書いているのです。それでミロクの世というものは、そういうようなことと反対です。そこで人間の、歌うとか踊るとか、いろんな楽器をならすということは、人間を楽しませる肝腎な天国的要素です。やっぱり芸術です。ですから地上天国は芸術が一番の重要なものですから、大いに芸術を尊ぶという観念を植えつけなければならないのです。美術館というのはやっぱりその大きな一つのやり方なのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p199~201」 昭和28年04月27日