教集21 昭和二十八年四月二十六日(3)

▽前節から続く▽

 美術館についてですが、今年は去年とはよほど変わったつもりですが、それについてそういった経路を書きましたが、これは話しするよりかえってはっきりしてますから、いま読ませます。

 (御論文「神技の美術館」朗読)〔「著述篇」第一一巻四九一-四九三頁〕

 美術館もだんだん各方面に分かってきたようですから、今年は観覧者もずっと増えるだろうと思ってます。いずれ熱海にも美術館ができますが、お寺の仏教美術というものでも、不思議でもないが、まあ不思議とも言えますが、あんがいすばらしい物が出てくるのです。それでだんだんお寺を調べてみると、財政についての一番致命的のことは、たいていな大きなお寺は田地<でんち>を持っていたのです。これが一番の財源であったのです。ところが戦後の農地改良問題で強制買い上げでみんな取られてしまったのです。そのためにお寺の一番の財源がなくなってしまったのです。それでお墓のある寺は檀家がありますから、それでどうやらやっていったが、京都、奈良辺りはそういう寺はほとんどないのです。つまり田地を持っているお寺と、さもなければ勅願寺で、これは徳川幕府の時代に、少し良い寺は一〇万石くらいの扶持をもらっていたのです。一万石、何千石というのはざらにあったのです。それがなくなって、それから明治になってから、そうとう由緒のある神社には、宮内省とかそういった関係方面の援助もそうとうにあったのです。それから華族とかその土地の先祖代々のしきたりで援助するということがあったが、そういうことがほとんどなくなったから、今度京都に行って由緒ある寺もまわってみましたが、無収入という寺がほとんどです。ですからそうとうに有名な寺でも、畳は破れてヘリなどはなくなっていて、実に気の毒なくらいです。そういう所ですばらしいのを持っているのです。中には京都、奈良の見物の人に、一つの見世物的に観覧料を取ってやっている寺もありますが、寺によっては、在方<ざいかた>のほうで不便な所ではそういうことがないので、維持して行くのにたいへんなので、良いのをボツリボツリと売って、わずかに繋げているのです。そこでそういう所からなかなか良い物が出てくるのです。そうかといって買い手はなかなかないのです。なにしろ今度私のほうで買うことになった三尊<さんぞん>の弥陀<みだ>というのは、中の本尊は等身大くらいあります。脇仏は小さいですが、これだけの物を飾るには四畳半くらいの大きさがいりますから、それを買って飾るというのは個人にはないのです。美術館でもほかにはないし、博物館では買わないことになっていて、借りることになっているのです。全部お寺の名前が書いてあります。お寺で売るとしても買い手がないのです。ですから割合安く買えるのです。そこで寺を助けるという意味で、箱根の美術館は小さいから並べることはできないが、熱海、京都のときにと思って金の続く限り買っておこうと思って、ボツボツ買ってます。そういうようで仏滅の世ということが、霊的でなく体的に出ているのです。それでお寺の仏像というのは、ほとんどなくなってしまうだろうと思います。それで国宝や重美になっているのはアメリカ人はたいへんに欲しがって、すぐ売れます。そういうようでお寺にある仏像はだんだん減ってゆき、だんだん形に出る仏滅になって行きます。中には本尊様を売っているのがあります。それには氏子<うじこ>の承諾書がついているのです。氏子がそれを承諾しなければ、自分も税金になかなかいじめられているので、お寺の維持費まで出すわけにはゆかないというので、判を捺すわけです。そういうようで仏教美術の良い物が集まりつつあるのです。と言っても仏像ですが、この彫刻はたいへんなものです。これは世界のどの国でも頭を下げます。世界で彫刻で良いというのはギリシアで、その後にダ・ヴィンチ、ロダンが出て作りましたが、日本の仏教彫刻とは段が違います。それから支那にも仏教の彫刻はありますが、とても日本のように秀<すぐ>れた作はありません。近ごろ、日本の仏像の彫刻などはだいぶ認められてきました。私は日本の仏像彫刻というのを世界的に認識させようと思っているのです。そういった寺にある傑作がだんだん集まってくるだろうと思ってます。そういうようなわけで、神様はあらゆる方面にわたり、いろいろな方法で集めたり、いろいろしてます。だいたい開祖や偉い坊さんが霊界で働いて手柄にするのです。自分がこしらえた寺にある良い仏像を、救世教の御用に使ってもらえばたいへんな手柄で、霊界においてそれだけの功労を認められて出世もするし、仏様は元はみんな神様ですから、その仏のほうから脱却して神様の位にしてもらって大いに働きたいのです。ですから近ごろになって、大いにそういった仏教美術が集まってくるのです。ですから道具屋がこんな物は出るはずがない、売るはずがないと言ってます。それは信者でないから不思議不思議と言ってます。そういう意味もあるのです。

△御講話おわり△

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p195~197」 昭和28年04月26日