▽前節から続く▽
それについてこういうことがあったのです。それは、吉住小三郎<よしずみこさぶろう>という長唄の師匠が、映画を見るときに私の隣に並んで、始終でもないが、よく来るのです。ところが信者の中に、こういうように考えたのでしょう。「とにかく小三郎というのは奥さんの長唄の師匠だ。それが明主様の隣に夫婦で来て平気で見ているということは、はなはだもったいない、あれは明主様がお許しになっているかは知らないが、どうもわれわれから見てけしからん」というように考えたのでしょう。それで小三郎さんの所に無名の投書が行くのです。「あなたは遠慮して行かないようにしてくれ」と。それが一度や二度でないらしく頻々と来るのです。そこで小三郎さんは、信者さんの中にそういうようなことがあっては、私は行くのを御遠慮しようと、最近は来なくなったのです。あの人は、ああいう人には珍しい人格者で、非常に遠慮深い性格の人ですから無理はありません。ところが実際のことを言えば、今日、長唄が一番全盛で音曲<おんぎょく>の王者とも言うべきものです。その長唄の中で名人というのは小三郎さんです。ですから放送局で頼みに行ってもなかなか行かないのです。この間は三十年記念かで頼まれて、やむを得ず出たが、そういうようで放送局でも自由にならないのです。それが私のほうで頼めばいつでもやってくれるのです。ですからあの人が出るという所は、救世教のお祭りのときの余興よりほかにはあまりありません。ですから一つの権威があります。だからその点から言っても重要な人なのです。お祭りの余興に対する一つの値打ちを出しているわけです。それからもう一つは、私はああいった芸能人、美術家という人たちは非常に貴いとしているのです。というのは、そういう芸能人の名人というのは、いかに民衆を楽しませるかということで、つまり清い楽しみを与えるということは非常に必要であり、非常に尊敬する人と思っているのです。ですから私は、たとえ国務大臣が面会したいと言っても、ふつうでは面会しません。そう言ってはなんだが、あんまり価値を認めないからです。大臣の代わりというのは、いくらでもあるのです。吉田内閣でも、何人任命したか分かりません。おそらく一〇〇人近いでしょう。それほどに代わりはいくらでもあるが、ああいった名人というのは代わりがないのです。だからいかに政治家よりか上の価値があるかということが分かります。前にイギリスのある有名な人の批評で「大臣は別に任命する必要はない、議場に行って紙つぶてを投げて、それが当たった人を大臣にすればよい」と言ってます。それくらいのものですから、ああいった芸能家、美術家の名人という人たちは、社会の非常に尊敬すべき人です。私はそういう意味から、小三郎という人はああいった芸能人の最高の人ですから、あの人だけは、信者にならないうちから浄霊しているのです。たいへん気弱くなっているから、長生きするようにしているのです。「あなたは国としても宝だから、できるだけ長生きして多くの人を楽しませるということが必要だ。自分がやらなくても弟子を養成しているから、それがたいへんだから、貴重だから、あなたはできるだけ長生きするように」と言ってやっているのです。それで映画を見せるのも、あれは奥さんでなく、私がやっているのです。それをどう間違えたか、あの人が映画に来るのを遠慮してくれというのはたいへんな間違いです。この考えというのが小乗的考えなのです。だからその小乗的考えというのは、私の意志や心をふみにじるようなことがあるのです。こういう人は、もう信者ではないのです。よく自然栽培で、なにしろ親代々コヤシをやるので、そんな無肥料でできるはずがないと言うのです。以前は堆肥にコヤシを薄めてかけたものです。それを堆肥だ堆肥だと言っている。それでそんなに成績が悪いことはないからと、だんだん尋ねてみると、やはり堆肥に小便をかけているのです。そういうように自分の考えを取り入れたがるのです。それがとんでもないお邪魔になるのです。いまの小三郎さんの問題でも、自分では良いと思っていることが、とんでもないお邪魔をしているのです。もしそういうことを聞いたら、ああオレは申し訳ないことをしたと、小三郎さんの所にお詫びに行くのが本当です。自分のために明主様のお気持ちをたいへん毀<きず>つけた、だから取り消しを願うから、いままでどおりに行ってくれ、というくらいなら立派なものです。ところがそれだけの勇気があればよいのです。そういう勇気のある人だったら、それはむしろ褒めてもよいくらいなものです。決しておだててそうさせようというのではないので、それが本当なのです。この話はそのくらいにしておきます。
▽次節に続く▽