教集21 昭和二十八年四月十六日(1)

四月一六日

 今度京都、奈良のほうのお寺まわりをやりましたが、実に各寺が疲弊しきっているのです。このままで行ったらたいていな寺はつぶれてしまうだろうと思います。それで京都、奈良が仏教の本元ですから、本元がつぶれようとしているのですから、まったく仏滅の状態がよく現われてます。本元のインドは仏教信者がだいたい三〇万くらいですから、人口が三億五〇〇〇万としてそのうちの三〇万とすると問題にはなりません。それから中国は中国でほとんど仏教はないと言ってよいくらいです。わずかに日本だけに残っているのです。それで日本の中心である京都、奈良がいまのような状態ですから、いよいよ仏滅は、いまやほとんど灯<ひ>が消えかからんとしている有様です。そこで京都別院を造るということも、その一部として仏教を救うという意味もあるのです。そういうようであっちのお寺などは仏像や仏画を売らなくてはやっていけないのです。それで本尊様だけはそんなことはないと思ったところが、本尊様を売りたいと言って申し込んできてます。

 昔からある上人、大師、禅師という高僧の霊は、これは『地上天国』の多賀夫人の霊憑りにもあるとおり、そういう偉い坊さんたちが霊界で非常にあせっているのです。というのは、霊界がだんだん明るくなるにつれて、仏滅ということがよく分かってきたのです。だいたい仏というものは、みんな神様の化身です。これはお釈迦さんが、仏滅の世の間は神様では駄目だから、隠退して時を待つか、さもなければ仏になって働けということを言われているのです。そこで日本の八人男女<やたりおとめ>という五男三女は、仏になるのは嫌だというので、それでは龍神になって時を待てというので、八大龍王となって時を待ったのです。それでお釈迦さんから名前をもらって、それでお釈迦さんに封じ込められたということになってます。インド名ですから、なかなか妙な名前で覚え難いのです。その龍神たちは日本の周囲の海に隠れて、というよりか、そこに約三〇〇〇年の間住んでおられたのです。それでいよいよ仏滅になって、今度は神様になる、つまり元の身分になるわけです。それともう一つは、いま言った仏様として働いた神様、そういう仏たちが早く神様になりたい、そうして京都のいろんな仏像や仏画が自分たちの居所になるわけです。それに憑っているわけです。それでいままで拝みに来る人などを守護していたのです。しかし守護していたといっても、仏の力というものは月の光で薄いから、御利益を多くは与えられないのです。どうしても太陽の神様の光でなければならないのです。それで太陽の光というのは、神様になってその働きをするわけです。ですから仏が神様になるというのは、いまなのです。それで八大龍王の一番の神様が伊都能売神龍<いづのめしんりゅう>です。これが近江の琵琶湖に隠れていたのです。それでほかの龍神はほうぼうの陸地に近い湾のような所……越後と佐渡の間の海にもいましたし、駿河湾、伊勢湾という所にもいて、そうしてまたその間、日本を守っていた点もあるのです。そういうようなわけだったのです。

 京都の平安郷に美術館を造り、殿堂も造りますが、そこで仏滅となり仏たちを救い、救うということは浄めるのです。仏の働きというのは神様の働きと違い、非常に間違ったこともやったのです。しかしこれは間違ったことをやらないわけにはゆかない点も大いにあったのです。そのために非常に穢れているので、それを浄めなければならないのです。浄めて初めて神様の資格になるわけです。それで平安郷でそういった仏様をみんな浄めるのです。そうして神様に戻るわけです。そういう意味があるのです。それで今度お寺をずっとまわったということは、主なるそういった仏様に、いよいよ君たちは救われるという警告をすると言いますか、そういう意味になるのです。ですから神様の経綸というものは、いろいろなことの、二つも三つもの経綸になるのです。そうしてそういった仏の霊が救われて神様になって、そうしてその仏像や仏画はカラッポになりますから、そこで美術品として美術館に並べて見せるということになるのです。そうでないと中に魂が宿っているときにそうされると、仏様は非常に苦しいのです。つまり美術品扱いをされるということは非常な侮辱をされるわけです。ですから嘘なわけです。よく仏像を集めたり家に置いたりすると、なにか災いがあると言って恐れる人があります。その一つとして大阪<ママ>の白鶴美術館ですが、今度私は行きましたが、あそこは非常に良い物があるが、仏に関した物が一つもないのです。あれだけ良い物を集めたのですから、仏に関した物があっても良さそうなものですが、一つもないのです。聞いてみると、仏には絶対に手を出さないという理由なのだそうです。そういうためもあるでしょうが、あそこの主人公は非常に長生きして、九二で亡くなってます。だからそういう考え方も間違ってはいなかったのです。

 そういった仏像という物は、良い仏像ほど良い仏様が憑っているわけです。そこで私が去年手に入れた観音様ですが、今度も奈良の木彫の良い仏像を見ましたが、それは法隆寺にあるのよりずっと上です。ですからこれは持ち主が放すわけはないのです。その仏像を置いてある所の二階が土蔵になっていて、そこで踏まれる形になるので、苦しくてしようがないというのです。それは木彫では世界一でしょう。木は白檀で虫がつかないのです。天平時代<てんぴょうじだい>にできたのですから、千二、三百年たっているが、一つも毀<きず>ついた所がなく実にきれいです。都合によったら今度出しますが、今度出なかったら、いずれ熱海のときの美術館に出します。それは実にたいしたものです。というのは、そういう仏像には良い仏様の霊がついているから、早く私の所に来たくてしようがないので、親父さんを動かしたのです。それは前から知っている人でなく、初めて知った人です。ところがどうしても私の所に売りたいというのです。自分はときどき見なければ気が収まらないが、美術館なら見たいときに見せてもらえるからと言ってました。ずいぶん高い値段でしたが、実際の価値から言うと安いです。そういうようで、結局仏様は私のほうに来たくてしようがないから、順繰りにそういう物が来るのです。まだ申し込みがずいぶんありますが、私のほうでも金のほうがなかなかそうはゆかないから延ばしているのです。今度の京都行きの意味はそういうわけなのです。

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