教集21 昭和二十八年四月二十五日(3)

▽前節から続く▽

 美術館についてちょっと書いてみましたが、しゃべるよりは要領良く書いたつもりですから、いま読ませます。

 (御論文「神技の美術館」朗読)〔「著述篇」第一一巻四九一-四九三頁〕

 それからいまの共産主義とかいろいろなことについて、ざっと書きました。

 (御論文「これから世界はどうなる」朗読)〔「著述篇」第一一巻四八五-四八七頁〕

 いま読んだとおりで、つまりいままでの社会というのはいろんな思想の人間に考え出させたのです。そうしてそれを実験してみると、結局どれもこれもうまく行かないのです。これは私は、大本教信者時代に分かったのですが、大本教の教祖様の出口なお刀自は経の信仰、つまり小乗信仰です。ですから実に厳しいのです。そこで教祖様は「イヅの御霊」とも言われたのです。「イヅ」というのは厳しいのです。それから聖師様の出口王仁三郎は経で、「ミズの御霊」です。教祖様は経、聖師様は緯だということになっていたのです。それで最初は「イヅの御霊」つまり厳しいやり方によって失敗したわけです。ですから教祖様は始終きちんと坐って、体を少しも乱さないのです。しかし厳しいと言っても、やはり神様ですから愛はあります。だからその厳しさを人には強要しないで、御自分で守っていたのです。おもしろいことがあったのですが、教祖様はどんな人にも同じような待遇をされるのです。それである信者が「教祖様はどんな人にも同じ待遇をされているが、やはり好きな方と嫌いな方があるでしょうが、それを伺いたい」と言ったところが、「ワシも好きな人と嫌いな人が大いにあるが、そういう別けへだてをすると、嫌いな人は非常にいやな思いをする、それがつらいから同じようにしている」と言われたのです。御自分には厳しくても、人には厳しくしないという、そこにやはり神様としての愛があります。だからそれに似たことは、私もよく言われます。私は忙しく自分の仕事をしてますが、それで家内やほかの者が遊んだりしてますが、よく世の中の亭主は、自分が働いているときに女房子供が遊んだりしていると、それがシャクに障<さわ>って叱ったりしますが、私はそういうことはぜんぜん、わざとやらないどころか、そういう気はないのです。私はむしろ、自分がいくら骨を折っても、ほかの者が気持ち良く愉快に遊ぶばかりでなく、いろんなそういう生活をしていると、非常に気持ちが良いのです。ですから自分がいくら忙しくても苦しくても、別になんとも思いません。これは私は別に修行のためにそうするのではないので、そういう生活のためなのですから、私の道楽のようなものです。人が喜んで満足しているのを見るのが愉快でたまらないので、そういうようにやっているのです。そういうようで、教祖様にはそういう点が非常にあったのです。ところが聖師様という人はぜんぜん反対で、だいたい生活も始終寝ているのです。信者がお目にかかりに行っても、寝ているほうが多いのです。それでワシはミズの御霊」で水なのだから、きちんと坐っていると苦しいと言って、歌を作るにも文章を作るにも、横に寝ていて筆記させるのです。これはおもしろいものです。ところがそういう緯のやり方ですから非常に拡がったのですが、そのために災いされて失敗されたのです。これが一つの型になっているのです。ですからお筆先に「大本は世界の型であるぞよ」というのがありますが、たしかにそうです。それで東洋は精神的ですから、「イヅの御霊」で、それが失敗したのです。それで西洋文明に負けたのです。ところが西洋文明も緯ですから、それによって失敗するわけです。そこで東洋の精神文明と西洋の物質文明の両方がきっちりと結ぶことが、いま言う伊都能売<いづのめ>式です。それが人類の目的です。そこで良い世界ができるのです。その結ぶ中心の仕事をするのが救世教です。ですから結局世界は、あらゆる思想、あらゆる主義というものが間違っているということを知って、いま書いてあったような、経にあらず緯にあらずという、これが世界をリードするわけです。そうすると、ほかの主義思想はいけないということを人類が覚るということがこれから出てくるのです。つまりいろいろな失敗の悩みが世界的に出てくるのです。それで救世教が、「こうやることが本当だ、これが真理だ」ということを世界中に宣伝して、それで初めて「なるほど」と気がついて、それが一つの根本思想になって地上天国ができるわけです。そういうわけですから、共産主義もスターリンがいたときが、まずとにかく華やかだったのです。それからアメリカが資本主義によって世界を非常にリードしてますが、これがいずれは共産主義と同じように没落すると思います。いまの話はだいたいを話したわけです。

△御講話おわり△

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p187~189 」