教集21 昭和二十八年四月二十五日(2)

▽前節から続く▽

 それについてこういうことがあるのです。私は映画を見るときに、長唄の吉住小三郎<よしずみこさぶろう>さんが私と並んで見ているが、それをたいへん気にする人があるようで、小三郎さんの所に無名の投書がたびたび来るそうです。私は最初は気にしなかったが、このごろたびたび来るので、これはいかんと思ったのです。ところがそれを良いと思って手紙を出すのですが、それは小乗信仰の信者のだれかです。というのは「明主様の隣に坐って、いくら名人と言っても、芸人がもったいない。それは明主様でなく、奥様の師匠だから、奥様がそういう具合に言うのだ、映画を見せるのだ」というように解釈しているのです。ところがあれは私がやっているのです。なぜと言うと、とにかくああいった日本の芸能界では長唄が一番なのです。これはみんな知っているでしょうが、社会で一番重要に扱われているのです。その長唄のうちではあの人が名人です。これもだれも知っているでしょう。だからあの人だけは放送局で頼みに行っても、なかなかウンと言わないのです。今年になってから、何年かの記念というので一度出ましたが、それで放送局では何回も頼みに行って、やっと承知したのです。ですからあの人が救世教の余興に出るということは、世間ではなかなかそういうことはないのです。ですからあの人が出るために、救世教の余興というものにたいへんな値打ちが出るのです。それから私はああいう芸能家に重きをおくのです。だからたとえ大臣だろうが代議士だろうが、会いたいと言っても会いませんが、芸能家の名人にはどんなときでも喜んで会います。なぜかというと、芸能家、美術家の偉い人というのは、そのためにどのくらい人が楽しめるか分からないのです。またかけがえがないのです。あれくらいの名人というのはいないのですから、そのくらいの人とすると、国の宝です。美術家でも、その人が死ぬと代わりがないのです。ところが国務大臣にしても、たいていな大臣は代わりがいくらでもあるのです。総理大臣は別ですが、なにしろ吉田さんが内閣を作ってからでも、大臣が変わったのはたいへんなもので、一〇〇人近くではないですか。それほど代わりがあるのです。ですからイギリスで言っていますが「大臣を選ぶのにそう手数はいらない、紙を丸めて議場に投げて、当たった者でよい」というようなことを言っています。ところが芸術家というのはかけがえがないのですから、非常に貴いのです。私は小三郎さんは特に優遇してます。それで映画などは非常に楽しみにしてますから、始終言いつけて映画があるたびに電話をかけて車で迎えにやっているのです。そういうようにしている私の心を知らないで、手紙をやるということはけしからんです。私の考えをぜんぜん妨害しているので、邪神にやられているのです。ですから小乗信仰というのは実際困ります。これはその一例です。しかしその人はそれを良いと思っているのです。だから咎<とが>めるということにはならないが、その間違った考え方はどうしても直さなければならないのです。ですから人間の考えで判断して分かるような、私のやることはそんな単純なことではないのです。なにごとでも非常に深いのですから、あれが良いとか悪いとか批評したり、そういう考えを持つということは、とんでもないことです。だから大本教のお筆先に「細工は流々仕上げを御覧<ごろう>じろ」というのがあります。ですから私は神様の計画どおりにやっているのですから、それを人間の目で見て善悪ということはぜんぜん分かるわけはないし、それをなんとか批判しようと思う心そのものが、ぜんぜん信仰から離れているのです。従って今年なども自然栽培についての報告がありますが、明主様はああおっしゃるが、昔から百姓はこうやることになっていると、つまり昔式のやり方をいくぶんでもしただけは悪くなっているので、私の言ったとおりのそのままをやっていない人は成績が悪いのです。このごろは分かってきたようですが、そういうようで、いままでの信仰では本当の大乗というのはなかったのです。だから信仰は大乗信仰でなければならないのです。小乗の人は経<たて>が長いので、緯<よこ>が短いのです。このために広がらないから発展しないのです。やはりバッジにあるように十の字で、両方同じでなければならないのです。経もあり緯もありでなければならないのです。だから善悪の批判もよいですが、決めるのがいけないのです。決めるから間違ってしまうのです。それは信仰には限らないので、神様が世界を経綸されるのは実に深いのです。だからあれが悪いとか、このやり方が良いとか悪いとか、そういう批評は本当はできるものではないのです。ところがそれをぜんぜん批評したり、なにもしないというのは、それもいけないのです。それは世の中の政治などはそれでよいのです。しかし神様のこと、私がやっている仕事だけはぜんぜん分からないのです。だから信仰のことだけは決めないで、あるがままにするのです。それから座談会の中に「頑張るというのがいけない」とありましたが、それはまったくそうで、頑張るということが、人間の力を主にすることだからいけないのです。だから頑張らないでフワフワとしていたほうがよいのです。浄霊に力を入れないでやるということと同じです。また私は腹に力を入れないということを言っているのもそういうことです。世の中の習慣はたいていあべこべのことが多いのです。いま言ったように、大臣や代議士より美術家のほうに重きをおくということは、いままでの考え方とは違いますが、よく考えてみればどっちが道理に合うかということも分かるわけです。いままでのいろんな考え方、道徳というものとは非常に違いがあるのです。私は余興のときにはいつでも『忠臣蔵』をやってはいけないと言ってますが、このくらい間違ったことはないから、それで私は嫌いなのです。それでよく武士道などというのは、あべこべのことが多いのです。それはその当時の権力者が自分に都合のよい道徳を作ったのです。だから非常に公平な人間の扱い方ではないわけです。だから今度論文に書いてますが、無論共産主義は亡びる、それから民主主義も亡びるということを書いてあります。共産主義は間違っているが、民主主義も間違っているのです。とにかく何々主義というのがいけないのです。いままでの世の中はみんなそうなってますから、いままでの習慣や道徳ということにぜんぜん捉われないで、神様の智慧、神智によって物事を見るというようにすると、本当の真理が分かるわけです。お説教はそのくらいにしておきましょう。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p184~187」 昭和28年04月25日