教集21 昭和二十八年四月二十五日(1)

四月二五日

 昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないということについて、教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならない、ということをいろいろ言ってましたが、それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎なところを忘れているというか、気がつかないのです。それはなにかというと、いつも言うとおり大乗と小乗なのです。この小乗的考え方がいけないのです。前から言っているとおり、救世教は大乗でなければいけないというのです。だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。小乗的な人は発展しないのです。大乗的な人は発展するのです。これはひとり宗教ばかりではなく、なんでもそうです。いま一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。私はよく裁判があって行って思ったことは、アメリカの裁判は、仮に罪があるとすると、この人は罪人にしたほうが国家のためになるか、あるいは罪人にしないほうが国家のためになるか、ということを標準にするのだそうです。それでいろいろな事業をする人などは、どこかに法に触れることが少しはあります。それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事はできませんから、少しは法規に触れる場合があるので引っ張られる、そうすると、この人間は法規上の罪にしたほうが国のためになるか、アメリカ発展のためになるかということを考えるのです。それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さなことは罪にしようがしまいがたいしたことはないので、裁判官の口先一つでよいくらいなものです。それで無罪にしたほうがアメリカのためになるということを標準にして決めるのです。だから私の裁判で鵜沢博士ともう一人の弁護士はその方針でやったのです。「岡田という人間は世の中のためになることをしている、非常に実行力のある人だから、こういう人は助けて、仕事をさせるようにしたほうが日本のためになる」ということをしきりに言ったが、裁判官にはそんなことはぜんぜん耳にはいらないので、ただ法律第何条に触れるというので罪人にするのです。だから日本は発展しないのが本当なのです。それは大きな、国家の害になるようなことでなく、小さな条文にでも触れると、それをたいへんなものにするのです。だから一つの欠点があると、九つの良いことがあっても、九つの良いことを見ないで一つの欠点で消してしまうのです。それが日本の欠点です。これは法律のことですが、信仰もそうで、屁のようなことで大きなことを忘れてしまうのです。だから発展しないとすると、そういうことが必ずあります。私はいままで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。窮屈な感じがします。あなたはこういうことをしてはいけない、神様の思し召しにかなわない、というようなことを言うと窮屈になります。そうでなく、自由でゆったりとした気持ちにならなければならないのです。またそうするのが神様の思し召しにかなうのです。神様は小さな欠点はとらないのです。ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。だから仮にその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、そういう人は神様の御守護が強いのです。それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳があることになります。もう一つは、それと同じことですが、小乗信仰と大乗信仰の違いさは、小乗信仰は自分が救われようとするのです。自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人たちを救わなければならないというのが大乗信仰です。だから自分が救われようということは捨てて、多くの人を救わなければ、とてもかわいそうで見ていられないということを、本人が始終思って念願するのです。そういうのが本当の信仰です。ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。人からなにを言われても、そんなことは気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。だからその点ちょっとしたことですが、たいへんな違いです。だからどこまでも大乗信仰です。それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういうことは言わないのです。小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないということを始終思ったり口に出したりするのですが、それがいけないのです。第一人が良いとか悪いということは分かるわけはないのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p182~184」 昭和28年04月25日