教集21 昭和二十八年四月八日名古屋市金山体育館での御講話(1)

四月八日

 時間がありませんからごく簡単にお話しします。これから一軒寄って、それから京都の嵯峨<さが>に行きますから時間がないのです。それに熱海から来るときに、信者が増えたので、途中橋のたもとに大勢待っているので、そのときには徐行して、たくさんなものですから非常に時間がかかったのです。

 今度京都に行く目的は少し変わった意味があるのです。それは、仏界が非常に変わってきて、つまり仏滅の時になってきたのです。仏が滅するということは、仏教を作ったお釈迦さんが言われるのですから間違いありません。その仏滅の時がもう目前に来たのです。そこでいま、仏界のいろいろな偉い仏様が救われたい希望が非常にあるのです。それが第一番の目的です。それで嵯峨というのは言霊<ことたま>からいきますと「サカ」です。「シャ」をつめると「サ」になるのです。それで嵯峨には昔から嵯峨のお釈迦様と言って、有名なお釈迦様のお堂があります。今度の嵯峨の名前は春秋庵<しゅんじゅうあん>とつけましたが、その春秋庵の右手のほうが釈迦堂です。それから左手のほうが阿弥陀さんです。一昨年京都に最初行った寺で、法然院には本尊様の大きな阿弥陀さんがあります。ですから今度の春秋庵はお釈迦さんと阿弥陀さんとの真ん中になるのです。それで春秋庵は観音様になって、右、左がお釈迦さんと阿弥陀さんになり、これが本当の三尊<さんぞん>の弥陀<みだ>というわけです。これが三位一体です。それで私が観音の働きをするわけなのです。それでお釈迦さんは私の母親になり、阿弥陀さんが父親になります。だからお釈迦さんは変性女子<へんじょうにょし>と言われるのです。だから女になるのです。それで観音様は子になるわけです。これはまだいろいろ深い意味がありますが、いまは詳しく言えません。大ざっぱに言えばそういうわけです。そうしてお釈迦さんは仏教を作っていままで救われたけれども、いつも言うとおり仏教は夜の教えです。夜の世界の間は仏教であり、今度はいよいよ昼間になり、日が出るわけです。そうすると仏教は滅するということになるのです。そのためにお釈迦さんの弟子……これはインドや支那にも仏教はありますが、だいたい今日ではほとんど日本だけと言ってよいくらいです。従って昔からの日本の偉い坊さんという人たちが霊界に行っていままで夜の救いをやられましたが、いよいよ時期が来たために、そういう人たちがここで考え直さざるを得なくなったのです。というのは、仏様というのは神様の化身なのです。化身仏といって仏に化けられ、そして救われるというそのために、仏をやめて神様のほうの仕事をしたいというわけです。そこで神様になりたいけれども、仏様たちはいままで非常に罪があるのです。というのは、実を言うとこれは少し話が深過ぎますけれども、信者さんばかりですから話します。それで仏様が罪を作られたのです。これは悪人の罪と違って善意の罪悪です。というのはいままで仏教は、仏のミスと言うか、嘘を教えていたのです。それはしかたがありませんが、そこでお釈迦さんは嘘も方便ということを言われましたが、やむを得ざる嘘を教えてきたために、人間は本当に救われず、つまり安心立命の境地になれなかったのです。それは本当のことを教えなかったからですが、夜の時代であったからしかたがありません。今度昼の時代になるにつれて本当のことを教えると、それはいま私が書いたり説いたりしていることなのです。そこで大いに救世教の手伝いをしたいのですが、いままでの嘘方便をやった罪をとってしまわなければ、救世教の仕事ができないのです。そこで私に、早く救ってもらいたい、助けてもらいたい、そうして働きたいということを非常に希<ねが>っているのです。だいたい仏様たちは京都、奈良に集まっているのです。そうして各寺々にみんなおられるのです。そうしてお寺にいろいろな彫刻や仏像、仏画がありますが、その仏像、仏画に仏様の霊がうつるのです。つまり御自分の居所になるのです。だから本当言うと美術品として楽しむということは、はなはだ失礼なのです。もったいないのです。そこで仏像から仏様の霊を抜くのです。霊が抜けて初めて働けるのです。仏様の肉体の住居というようなものです。そこで私がこれから嵯峨でやる仕事は、そういう仕事になるのです。ですから仏様たちのいままでの罪をみんな浄めて、今度は神様になって救世教で大いに働くと、そうすると仏像はカラッポになるのです。そこで美術品として多くの人に見せて楽しませるということは差し支えないことになります。それで今度だいたい設計するつもりですが、仏教を主とした美術館を造るつもりです。それで初めて仏様たちの霊は救世教として働き、いままでの仏像は美術品として大いに働くということになるのです。これは本当にいままでにないことです。けれども信者さんはたいていはそう思うでしょうが、なかなか信じ難いのです。けれどもこれは本当なのですから、これからだんだんこの経綸が進むに従って、そういうことが具体的に現われますから、そこでなるほどと分かります。ですから本当言うと、いまは京都、奈良あたりのお寺では財政などでずいぶん困って、修繕もできないとか、掃除もできないで、ずいぶんお気の毒のような状態なのです。そういうことも今度、いままで長い間それらの美術品を守っていたその功労によっても、もっと良くしてあげなければならないと思っております。そういう点もちゃんと安心のいくようにしてあげたいと思って、いろいろ考えもし、これからだんだんそういう仕事をするつもりです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p151~153」 昭和28年04月08日