教集21 昭和二十八年四月七日(1)

四月七日

 明日京都に行く事になりましたが、その目的は、嵯峨の今度の家に泊って、これからのあそこの地上天国と美術館の土地やいろいろの事の、大体の指図をしようと思ってます。あそこの美術館は、前にも言ったとおり仏教美術館を造るつもりです。これは箱根の美術館とは全然違って、もっと大きな伽藍<がらん>としたものです。あんまり細かいケースなどは要りません。ですから簡単に出来ます。そういう話を文化財の役員などに話すると非常に賛成してます。なにしろ京都の仏教美術、特に彫刻では、日本の仏教彫刻が世界で一番なのです。彫刻ではギリシャの彫刻というものは世界的に有名なもので、彫刻の元祖であり又非常に名品が出来ました。西暦紀元前四、五百年くらいが最も良い物が出来たのです。それで今度箱根美術館にもギリシャの彫刻がいくらか出ますが、やはり二千年くらい前の物で、なかなか面白い物が出来てます。それからローマ時代にかなり出来ましたが、日本の仏教彫刻から見ればずっと低いのです。高さがありません。つまり写生ですから、普通の人間のいろいろな形をうまく表現したわけです。ところが日本の仏教彫刻というものは、理想つまり人間以上の仏を現わしたわけです。だから高さにおいて非常に高いのです。そこで技巧の点から言っても非常に巧妙なのです。巧みです。ですから外人でも一部の人は非常に憧憬<どうけい>しているのですが、まだ大部分は知らないのです。何故と言って、見ようとしても、一々お寺に頼んで、靴をぬいで薄暗い所で見なければならないのです。どうやら見られるのは法隆寺です。法隆寺だけは奈良に行けば大抵な人はきっと見られますが、しかし外の所を何軒も見るという事は、日数は幾日もかかるし、おまけにある所が、法隆寺にしても薄暗い所で、それから又遠くの方から見るとか厨子<ずし>の中にはいっているのを見るというように、どうもややこしくて、美術館的に簡単に良く見られません。ですからそういう弊害を無くして、一目で良く見られるというのが今度の美術館の狙い所です。そういう建物を建てて、各寺に了解させて、本尊様はそうはゆかないでしょうが、本尊様以外の良い物を一堂に集めて、一度に見られるというようにするのです。ですから観光外客などは、時間の制限や一日しか京都に滞在できないという人が一目で見られるし、そうして日本の彫刻の秀れた事を世界に紹介するという事は、国家的にも非常に必要なのです。これは京都市あたりでやらなければならない事だが、なかなかそうはゆかないので、それをこっちでやってやるのですから、本当に分ると、京都市としても余程有難い事になります。

 今説明した事は表面と言いますか、外郭的の話ですが、霊的に言うともっと素晴らしい意味があるのです。明日はお釈迦さんの誕生日ですが、特にそうしたわけではないので自然にそういう都合になってしまったのです。というのは、これから嵯峨の経綸にかかるわけですが、それはお釈迦さんの経綸になるわけです。それで私が今度行くのはお釈迦さんの仕事をするわけです。そこで四月八日という事になったのです。それで嵯峨という土地は大体仏教の本源地として非常に意味があるのです。それで仏教は五、六、七の七になるのです。火水土の土になるのです。だから何時かも言ったとおり京都の経綸は土の経綸ですから、あそこは平で広い所なのです。それで土地の面積が一万八千坪というのは五六七で、あそこでミロクが完成するのです。箱根、熱海、京都で五、六、七が完成するのです。そこで土地も一万八千坪というわけです。私は最初に聞いた時にハハアと思いました。それで嵯峨という言霊は、「サガ」の濁りを取ると、「サカ」という事になりますが、「サカ」というのは「シャカ」という事になります。「シャ」をつめると「サ」になります。そこであそこに釈迦のお堂があって、嵯峨の釈迦さんと言って、昔から有名なものです。そういう経綸になるわけです。そうしてもう仏滅の世にはいって来たわけです。そうすると仏滅の時になり、つまり仏教は亡びるわけです。それを救うわけです。救うという事は、仏になっていた神様の霊を、神に救い上げるわけです。その経綸がこれから始まるわけです。それでそういう仏様が京都、奈良に集まっているのですから、此処はその仏達を救うべき道場というわけになります。それで各寺にある仏像にその仏様の霊が憑るのです。だから仏像というものは、ただ表面的に見れば美術的の物ですが、霊的に見ればその仏像に仏様の霊が憑るのです。霊と言っても、弘法大師、親鸞、法然、道念というような人達が仏像に憑って、私がこれから造る美術館に集まって来るのです。それでそういう仏様はいろんな罪穢れをうんと背負っているのですから、それを私が浄めてやるのです。大体元は相当神格を持っていたのですから、浄められると今度はその神格を持って救世教のために働くという経綸になるわけです。ですから霊的に言えば大変な経綸になるわけです。それで神様がやられる事は二つも三つも仕事が出来てしまうのです。そういう点などは、神様だから当り前ですが、実にうまいものだと、私は何時も感心してます。そつ<ヽヽ>がありません。それについては、仏というものはお釈迦さんが始めたのですから、そこでどうしても仏を大いに救わなければならないのです。というのは仏というものもやはり大変な必要があって出たのですが、しかしながら今まで夜の世界であったために知らず識らずいろんな間違った事を仏様がしたのです。ですからここでどうしても浄まらなければならないのです。偉い開祖とか教祖でも地獄に落ちたのもあるのです。そこで今度の嵯峨がやっぱり天国になって、そういう仏様が集まって来るのです。救世教の経綸というものは、今言ったように非常に深いものなのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十一号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p146~148」 昭和28年04月07日