教集20 昭和二十八年三月十六日(4)

▽前節から続く▽

 それから私は昨日から始めましたが、生け花を天然色写真にとって、幻灯<げんとう>はわけないから幻灯にして、全国の各支部に写して見せようと思ってます。とにかく私の生け方は革命的なものです。花はこういうように生けるものだということの教えにもなりますし、その花によって、見る人がいくらか浄霊されるわけです。というのは、私が生ける花は自然の法に合っているわけです。それから神の気を受けるわけですから、やっぱりいくぶん違うわけです。花を習っている人もたくさんあるでしょうが、いまは非常に間違っているのです。もっとも昔からそうですが、特に最近は非常に間違っているのです。絵の具を塗ったりしているのは、堕落も堕落、救うべからざる窮地に来ているのです。それに対して私はいくらか憤慨しているくらいです。ちょうど気がついたので、これからそういった花を生けて、そうしていずれはそれを画帖にするつもりです。そうしてみんなに分けようと思ってますが、差し当たっては幻灯にするつもりです。昨日は一〇ばかり写しました。しかし私は早いですから、一〇作るのに一時間半くらいです。それで本当言うと床の間の大きさと形と壁の色と、床の畳や板、それから掛物も絵とか字とか、その大きさとかにピッタリ合わせるのが本当です。それがピッタリ合えば、見ていても実に気持ちが良いのです。趣味がわくのです。しかし花の先生でそこまで気がつくのは、少しは気がつきますが、たいていは外れてます。そこで写真に写すのはそういう点が困難なので、花だけにします。また花も四季によってみんな違います。原則としてはそのときの一番の花の盛りのその花を生けるのが本当なのです。それが自然なのです。季節外れの物に高い金を払って生けるというのは間違ってます。ときどきお茶の先生が来てお茶の会をやり(家の女中にも覚えさせていますが)よく季節外れな牡丹<ぼたん>などを高い金を出して生けますが、これは嘘なのです。季節の物をやるのがいいのです。その花の一番の盛りで、人間で言えば油が乗っているときです。そういうのを切って生けるのです。それで花を生けるのに、花を切ってからひねくりますが、そのために花が死んでしまうのです。ですからできるだけ早く生けるのです。私の褒められるような花は一分か二分で生けた物です。五分以上かかったら駄目です。私はたいてい五分以内です。五分以上かかるときは変えなければ駄目です。それで木の枝を見て、それから花の咲き具合を見て、咲ききってはいけないし、つぼみではいけないし、これから咲こうとするときが一番良いのです。それから切る長さも、長くても短くてもいけないので、具合良く切って、それにちょうど合うような花器を選ぶのです。それから花器にも古いのと新しい物がありますが、新画を掛けたときは新しい物が調和します。それから古い掛物のときには花器も古い物で、本当言えばその時代に合った物が良いのです。それから花器には支那製と日本製とがあります。ですから花や枝もそういうように合わせると良いのです。それで支那の花器には梅などが合うのです。やっぱり支那の感じがするような物が合います。それから派手な場合と渋い場合といろいろありますから、そういうことをいろいろやると、なかなか簡単なものではないのです。しかし、ひととおり覚えてしまえばなんでもありません。そこでもういっそう細<くわ>しく言うと、掛物の絵なら絵が、花のほうが下手ですと掛物のほうが勝つのです。そして花のほうが非常にピッタリとうまくゆくと掛物のほうが負けるのです。そこに芸術の価値、芸術のレベルがあるのです。だからそういう場合に、名画というものは、やはりその価値が良く分かるのです。書でも同じです。上手<うま>い書というのでなくて、人格のある人が書いた書は、こっちがうんと気に入った花でも、それに負けないでしっくりと合うのです。そういうのはいまでも有名な書とか絵です。そういうのはなんといっても宋元物<そうげんもの>と日本の琳派物<りんぱもの>です。そういう物は、私がどんなに上手く生けても、掛物が負けないで合っているのです。これは花を通じて見た絵ですが、こういうことは芸術の最高の理論です。

△御講話おわり△

「『御教え集』二十号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p88~89」 昭和28年03月16日