▽前節から続く▽
それから話は違いますが、大自然に対する草や木ですが、これがおもしろいのは、私は木の枝を切ったりして形を良くするが、それが一種の道楽なのです。それでよく切り過ぎたと思うことがありますし、それから植える場所によっては(木には裏表があるのですが)、表が出せないときには裏を出すとか横を出すのですが、それは具合が悪いのです。そうすると木のほうで形を調<ととの>えて良い形になるのです。それから生け花でも、家の各部屋全部を私が一人で生けるのですが、ちょっとまずいなと思っても、翌日には花のほうで良い形になっているのです。そうかといってだいたいは、良く生かるのと悪く生かるのはしようがないですが、ちょっとした点は花のほうで生きていて見良くするのです。これは実に神秘なものです。要するに大自然にそういった働きがあるのです。
とにかくああいう物にも魂があるということが分かります。外国のだれかの説ですが「すべてああいう物を愛するという愛の心でやれば、ふつう三〇年くらいたたなければそれだけの大きさにならない物が、半分ぐらいでそれだけに育つ」ということを二、三日前のラジオで聞きました。それでその人は長年の経験で木を愛するのです。投げやりにしないで、かわいがるのです。愛すると育ちが非常に良い。それでああいう物にまで人間の愛を感ずるというのは、たいしたものだということを経験上から言ってましたが、やはりそういう草木にも魂があると思っているのです。植木屋がよく言うが、花が咲かないときには「今年花が咲かないと切ってしまうぞ」また実がならないと「今年実がならないと切ってしまうぞ」と言うと、言うことをきくのだそうです。これは熱海の森本という植木屋さんが言ってました。ですからそれが事実とすれば、つまり人間の言葉の聞き別けができるわけです。これは霊的に細かに言うとよく分かるので、なんでもないことです。
草木ばかりでなく、茶碗のような物でも、人間が愛すると違うのです。よく粗相<そそう>しますが、これはやはり器物に対する愛がないのです。というのは、それを持った人間が愛すると、これに人間の霊がはいるのです。それで霊がはいるばかりでなく、人間の形まではいるのです。ですからアメリカの霊媒ですばらしいものですが、ある人が始終持ってますと、それを霊で見ると、それを持つ人の年齢から姿からがすっかり分かって「いまこういう物を持っている」と言ったりします。ひどいのになると「昨日こういうことがあった。以前はこういう経歴だ」ということが分かるのです。それで長く持っている物ほど強く印象されているのです。これは私は、外国の雑誌に記録が出ているのを読みました。そういうようで人間の感情でいかに影響するかが分かります。
ですから私の書いた文字を見ると、この文字から一つの浄霊をされるのです。いま私がいろんな本を出してますが、興味本位からでもなんでも読めば、それから浄霊されるわけです。それは文句、つまり活字の並べ方に非常に影響があるのです。とにかく私の書いたものを活字にしても、活字に霊が含まれるのです。べつに私が印刷したものでなくても、だれがしたものでもそうです。実に霊界というものは微妙なるものがあります。
▽次節に続く▽