教集19 昭和二十八年二月七日(2) 

▽前節から続く▽

 それから今度のお蔭話の報告に、岐阜県のほうの人で反当り約一八俵穫ったという人があります。しかし細かく何斗何升ということを調べてなかったのは残念でした。ところが『朝日新聞』で毎年日本一の米作りを募集してますが、四、五日前の新聞に今年の成績が出てましたが、一等が一五俵三斗三升二合なのです。それが日本一です。これはいままでにもないくらいのように書いてあったと思います。来年は『朝日新聞』に出すように言っておきました。こういうことが日本一になると、自然栽培の効果というものが一遍に知れますから、非常にいいです。まだいろいろあったようですが、これは今度の「農業特集号」に出しますから、それを読めば分かります。それでお蔭話を見ると、やっぱりいろいろ迷ったり、中途半端な人は、やはりそれだけの結果しか得られないのです。私の言うとおりにだんことしてやった人はみんな成績が良いのです。これは、はっきりしてます。それで、一番肝腎な点は、肥料迷信は無論ですが、土を清浄にするということです。これがどうも分からないらしいのです。だから無肥料にしたとは言いながら、廐肥<きゅうひ>は差し支えないだろうと思って入れたり、ほかの変な物を入れるのですが、それがたいへんな災いをして成績が悪いのです。それから、まだ迷信が抜けきれないので、藁<わら>をたくさん入れたり枯れ草を入れたりしてますが、これがかえって邪魔するのです。本当言うと土ばかりが一番いいのです。混ぜただけいけないのです。ではなぜ堆肥をやるかというと、土地によって固まりやすい土があるのです。これは赤土系統が多いのです。それで土が固まるのがいけないので固まらせないようにするためと、稲などは温かい所はそうでもないが、東北のような寒冷地の所は、土を温めるほど良いから、そのために藁を切ってやるのです。ところが私はずいぶん書いているのですが、粗く切り過ぎていけないのです。五分や一寸くらいに切っては粗過ぎていけないのです。それに稲の根伸びのときに妨害になりますから、一分か二分に切るほうがいいのです。ただしこれも、その土地によっては、非常に水が氾濫したりするのは浮いて流れるから、これも困るのです。そういうのは三分か五分にしてもいいです。それから、土に混ぜてなるべく浮かないようにしなければならないのです。上っ側のほうでなく、芯のほうに深く藁を混ぜたほうがいいです。それからもう一つは、土地によって、気候の関係もあるし、水の多い少ないがあるし、それから水でも、高い山から流れてくるのと、低い山から流れてくるのは、まるで水の温度が違います。それから日当たりの良い所と、山陰の所といろいろありますから、その状態によってそれに合うように工夫していくということが肝腎なのです。それで根本は土を穢さないということです。そうすればまずいままでよりか倍は穫れます。ふつう反収五俵として、たいていな所で一〇俵は獲れるようになります。よほど条件の悪い所でない限り一〇俵は穫れます。これを頭に入れておくといいです。それから種が非常に肝腎です。無肥の種と有肥の種とではたいへんな違いです。今度の報告では、無肥の種ですと初年度から増収になってます。それからこのごろは良く分かったでしょうが、最初のうちは黄色い穂が出るのです。有肥のほうは青いのが出るのに、こっちは黄色い、細いのが出るというのですが、これは肥毒のためなのです。ですから、肥毒が抜けてしまえば、黄色いのも細いのも出なくなります。それで二年も三年もやっていてそういうのが出るというのは、種と土地にまだ肥毒が残っているのです。ですから少しでも黄色くなるうちは、うんと増収にはなりません。最初から青い穂が出るようなら、これは肥毒が抜けているのですから増収になります。それで肥毒がまったく抜けると枝が出るのです。穂が出るのです。ですからいくらでも増えるのです。この穂に穂が出るようにならなければならないのです。これは肥毒が抜ければ、よほどの寒冷地でない限りはそうなります。それを心得てやれば、すばらしい成績が上がります。

 それから二毛作、特に麦と交代でやりますが、これが非常に悪いということが今度実験によって分かりました。ごく暖かい所なら二毛作で良いのですが、それはよほど条件がいい所でなければ二毛作は考えものです。ですから今度も二毛作より一毛作のほうがかえってよけいできている所があります。麦と交代でするということも、いけない理由がまだ分からない人がだいぶあるようです。それから連作です。この農民の考え方が、土というものをどうも疎かにするのです。だからして連作が良いということは、たとえて言えば、茄子なら茄子でいうと、土というものは茄子が良く育つように変化して行くのです。ですから連作にすると、そのものに対する土の働きがだんだん強くなって行くのです。だから連作がいいのです。そこで麦と混ぜると、土の性分は米が良く育つようになりつつあるところに麦を入れると、今度は麦のほうの性分に変わって行きますから、それをチャンポンにやれば、土の性能は両方とも充分発達しないのです。発達しかけたものが、パッと変わってしまうのです。ですから連作もやはりそういう理屈なのです。連作するほど良くなるのです。こういうことはいままでの考え方とあべこべです。いままでは百姓は連作を非常に嫌いましたが、あれは肥料のためにああいうようになったのです。そういうわけで、私の書いたものを見て、そのとおりにやることです。ほかのことをちょっとでもしてはいけないのです。ところがどうもいままでの習慣や言い伝えに捉われがちなのです。だからよく書いてありますが 「病気は浄霊でなおるが、なるほどそうだ。しかし作物のほうは違う」というように考えているのですが、これは同じことなのです。そのことも今度書きますが、いま気がついたから話したのです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』十九号、岡田茂吉全集講話篇第十巻p22~25」