〔 質問者 〕いまの神様のことを主にしないというお言葉で、非常にお蔭をいただいたのに御礼をしないというのがありますが、実はお許しがないからできないのだと考えますと、そういう場合にも、ははあ、お許しがないのだな、と思いますと苦しみません。
【 明主様 】そうです。自分はお蔭をいただいていても信仰に入らないのがありますが、本人は信仰に入りたいのですが、邪魔があったりするのです。それはなにかと言うと、神様が許されないのです。それからこういうことがよくあります。熱心な人があって、フッと来なくなったり、他のことをやってみたり、いろいろしますが、そうするとずいぶん馬鹿な奴だと思いますが、そうではないのです。神様が、お前は入れてやったが、汚いものがあるからもっと苦労しろというので、要するに資格がないというので神様がつまみ出されるのです。そういう点は解釈の仕方が違うのです。だから入るということは、その人が入りたいから入っているのでなく、神様がお許しになるから入れるのです。そこは神様中心に考えると分かるのです。それから「あいつは邪魔する、酷い奴だ、ああいうのを神様はどうして生かしてある、許してあるのだろう」と言うが、それは神様になにかわけがあるのです。そのときはそうでも、いずれはなにかに使うのです。ですから要するに人間の判断というものは分からないものです。神様くらい深いものはありません。それはあべこべのようなことがよくあります。
〔 質問者 〕八月一五日以前と敗戦以来ということで、われわれが知っている世界でも変わりましたから、ましていわんや善悪を決めるということなど、とても分かるはずはございません。
【 明主様 】それを「あいつは間違っている、あいつは悪い」ということは、いつも言う通り神様の領分を冒しているのです。人間の分際でそういうことが分かるわけはないのです。ですから自分が正しいと思うことをしていれば良いので、人のことを言うのは、よけいなお世話です。
〔 質問者 〕そのよけいなお世話で、どのくらい罪をつくっているか分かりません。
【 明主様 】そうです。そういう場合に常識で判断しなければ駄目です。やっている経路でなく結論で判断するのです。良いとか悪いとか、いろいろ議論しますが、議論は良いと思ってやっているのだが、議論してその結果はどうかということです。議論をする結果としない結果を考えてみて、結局しない結果が良いのです。というのは、議論というのはそれが良いと思ってやっているのですが、ところがそれは神様しか分からないのです。だからある程度まで意見を言うが、そこでスラスラといかなければやめるのです。言うのは、なにを言っても良いのですが、そこであっさりとして、スラスラといかないことはやめるのです。これが本当に良い説ならだれも刃向かうことはできません。それはそうだとなります。そういかないということは、どこかにねり方が足りないということになります。