〔 質問者 〕教修をいただきましただけで、だいたいの人相がちょっと変わるくらいでございますから、特に。
【 明主様 】そうです。やっぱり信仰によっていろいろあります。天理教には天理教の色があります。天理教は非常におとなしく、謙遜で良いが、さっぱり人間の意気がなくなってしまいます。哀れ愍然で、実にかわいそうになります。あんまり消極的になりすぎている。そうかといって、日蓮宗のほうはあんまり気違いじみていて、トゲトゲしく、円満でありません。日蓮宗を長くやっていると、実に柔らか味とか温か味がなくなります。つまりいままでの信仰は一つの色があります。色があるものでは駄目なのです。社会一般と少しも変わらないというようなものでなければならない。メシヤ教は、人間で言えばデパートです。ほかの信仰は専門店です。呉服屋なら呉服屋、米屋なら米屋となっている。メシヤ教はあらゆる商売がある。そこに世界的の意味があるのです。つまり色がないということは、太陽と同じです。太陽は七色がこなれて白色になっているのです。それで私は先に「寸鉄」のときに「白光生」としていたのは、その意味です。いろいろな色が含まれていて、その色が見えてはしようがないのです。つまりコントロールされて白になっているというのが理想的のものです。昔から言いますが、天皇の「皇」というのは、白の王様というので、あれは良くできた字です。これは天から降臨した形です。それで天地人を貫くとか、あるいは天と地の間を結ぶとか、あるいは日月地を貫くというのです。いずれ字の意味も、言霊の意味も書こうと思ってますが、なかなか書く暇がないのです。これは一応知っていると便利です。
「『御垂示録』十五号,講話篇第六巻p303」 昭和27年11月01日