昭和二十七年七月十五日 『御教え集』十一号(3)

六月六日

御教え 今日は少ないですから、ちょっと変わった話をしましょう。私はいつも大乗と小乗ということをよく言うんですが、これが本当に腹に入るのは、なかなか難しいらしいんですね。それで、まったく難しいには違いないんですよ。そこで私は小乗にあらず大乗にあらず、大乗であり小乗であり……両方反対のことを言っているんです。これは経と経でいえば、緯が大乗で経が小乗ですね。そこで大乗でもいけないし小乗でもいけない。それから大乗でなければいけないし小乗でなければいけないですね。だから非常に難しいと言えば難しいんですがね。解ればやさしいんです。なんでもない。だから一番それが分かりやすい考え方は、結果を見るんです。結果が良ければ大乗も小乗もないんです。たいへん理屈に合っていて結果が悪い人はたくさんあります。むしろ理屈に合うほうが結果が悪いんです。理屈に合わないほうが結果が良いんです。

 今度は、おかしな話で……理屈ということになりますが、よく昔から理外の理と言いますが、理外の理というのはないんですよ。理屈に合わないということは、理屈が違っているんですよ。理外の理という、その前の理というものは、理じゃないんです。理外の理という後の理は本当のものなんです。先の……理外の「理」ですね。そっちが間違っている。で、世の中の道理というのは、ほとんど間違いが多いんです。そこで間違った理屈の他の理屈ということになります。ところが、間違った理屈の他の理屈ということは、間挙っていないんです。そうすると理外の理という言葉はないんです。理内の理ですね。そこをよく考えなければならない。だから譬えてみれば医学ですね。医学というものは科学だということを言ってますが、私は科学ではないと言うんです。浄霊が本当の科学です。結果からみて浄霊のほうが効くからね。それから浄霊のほうなら、どんな深くでも説明ができますからね。医学では説明できない。風邪はどこが原因ですかと言うと、まだ発見できない。先生この病気はどこが原因でしょうと言うと、こういうことになっているが、まだ解りません。ヒドラジドは効くというが、どういうわけで効くんでしょうと言うと、そいつは分からない。実験したが分からないと言う。実験したが分からないということは、あれは科学じゃない。つまりまぐれ当たりなんです。たぶん効くだろうといって、効くか効かないか、副作用があるかないか試すでしょう。動物実験から人間実験から……いろんなことで試すでしょう。それは科学じゃないんです。科学というのは方程式にちゃんと合ってなければならない。だから動物実験するということは科学じゃないんです。鉄砲を射っても、弾道が正確だとちゃんと当たるんです。弾道が正確でないと当たり外れたりするんです。だから、医学はいろんな実験をする間はまだ科学じゃないんです。つまり推理ですね。たぶんこうだろう、たぷん良いだろう。これは赤痢に効くだろう。何人やってみたら、それが良くなったからたしかに良いと……それは理屈じゃないんです。まぐれ当たりなんです。薬というものは、みんなまぐれ当たりです。どういう理屈によって、どういう作用によって効くという説明はできないんです。まぐれ当たりのような、そんなあやふやなものを学理というんです。すべてがそういう理屈になってますから、本当の理屈のほうが理外の理になっちゃう。だから、いままでの理屈というものは、いまみたいに外れている理屈もあるし、やや真理に近い理屈もある。理屈にもいろいろありますがね。やっぱり医学で……よしんば薬が効くとして、一時効くのと永遠に効くのとありますね。半年は大丈夫だ。一ヵ年は大丈夫だが、その先は分からないというのは、本当に効いたのではない。一時的なものですね。肥料もその理屈なんです。硫安なら硫安をやると、最初一年なり二年は効くんです。それがだんだん悪くなる。それに気がつかないで、最初できたからいつまでも効くと、こう思っている。実に人間の目は近視眼になっているんですよ。遠くが見えない。ところが浄霊するといままでなかった熱が出てくるし、オデキが出てくるしね。だから一時は悪くなったようにみえるが、それを越せば良くなるんです。それが医学のほうは、一時熱が冷めたり痛みが軽減されたりする。だから理屈は、向こうのほうの理屈は短い期間の理屈ですね。永遠性のない理屈ですね。われわれのほうは永遠の理屈ですから、そこで真理なんです。

 小乗と大乗でも、そういうことが言えるんですね。で、小乗大乗の場合に、一番もっともらしく聞こえるのは小乗ですよ。これは日本が終戦前に国家に忠義を尽くせ、忠君愛国が本当だ、というその悲愴な理屈ですね。よく勤皇なんかの伝記とか、いろんなやったことを聞くと、それは涙がこぼれるような忠誠ですね。偉いと思いますね。しかし私はその時分からそういうことが馬鹿馬鹿しくてね。腹の中では笑ってましたがね。ちょっと聞くと非常に理屈が良いですからね。道理に合っているようにみえますからね。それで感心してみんな命まで捨ててやるんですがね。ですから私はいつでも、小乗的理屈と思ったのは、非常に日本は忠君愛国……日本人は忠義だと強調したとき私は思ったんです。それじゃ朝鮮人も支那人もそういう忠君愛国だったらどうだろう。すると日本が人口が増える。どうしても食いものが足りないので、どこかに拡がらなければならない。するとお隣の国に拡がらなければならない。ところがお隣の人間が忠君愛国だったら厄介ですよ。他国の人間は一人でも入れるものか、国をやるものか。そうするとそこに武力をもって入り込むでしょう。防がなければならないとなる。だから忠君愛国は、戦争を作るようなものだということになる。戦争を作るものだとしたら間違っている。だからああいう敗戦の結果こういうふうに変わったということは、実は間違ったことが訂正されて本当になった。間違わないことになるんですね。で、私は先から嫌いなのは忠臣蔵ですね。あれは嫌いで、ですからこの前の春の大祭のときには、講談で忠臣蔵をやらないように、と注意させたんです。私は大嫌いです。なぜ嫌いかというと、君に忠義を……浅野内匠頭の忠義のために自分の命を犠牲にして、苦心惨憺してやったんですが、それは感心です。感心だけれども、本来仇討ち思想というのは、非常に間違っている。倅なら倅が……親父がだれかに討たれたというと、どうしても親の仇だと言って、一生を仇を討つことにのみ骨折っているとすれば、人間というものは実に馬鹿馬鹿しいもので、世の中を良くするために……神様が理想世界を造るために生まれたのに、人殺しをやるために一生を棒にふるのは、いかに間違っているかが分かるし、親の仇といって討つと、その息子がまた親の仇と言ってやる。そんな馬鹿馬鹿しいことなんです。だから仇討ち思想をなくするのが一番良いと私は思っている。そこで仇討ち思想をもっとも偉く見せかけているのは、忠君愛国が代表的なものです。だから私はあれはいかん、嫌いなのはそうなんです。これは祖先以来仇討ち思想を押し込まれてきたためですが、実に厄介な思想です。それでもう一つは昔の武家時代ですね。武家時代は武家が自分に都合の良い道徳を作ったんですね。その代わり一生食うに困らないだけの扶持をやるから、殿様が不慮の災難が起ったとき、あるいはだれかにやられたときには……というのだから、うっかりやれない。だからその殿様が安全になりますからね。そこで権力者が安全にするために武家道という自分に都合の良い道徳を作った。その代わり一生涯困らないだけの扶持をやるというんです。そこで忠臣蔵みたいにやるのは、あたりまえですよ。あえて尊ぶべきことで値打ちを評価する価値はないですね。それはふつうの人でも一生涯困らないだけのものをもらえば、そうするのは、あたりまえです。一種の取引ですからね。食うに困らないだけの扶持をもらって、生命を維持されたんですから、君のために命を捧げるというのは、経済的に言えば一種の取引です。だからそこに人類愛的な、なにもなければ、崇高な、なにもない。それを崇高にみせたり、神に祀ったりするのは、いかにそのときの道徳が間違っていたかが分かる。いまの見方は大乗的な見方です。ところが忠臣蔵は偉いとか曾我兄弟は偉いというのは小乗的な見方です。それはその人だけの見地から見ていくからそうなる。どうしても真理というのは、大乗的にみるのが真理なんです。どうみるかというと世界人類……世界をみるんです。世界が全部良くなるというのが真理であって、それが大乗です。あと自分……とにかくせばめられた言動ですね。自分の家を良くしようというのは小乗です。そこで小乗の悪は大乗の善で、大乗の悪は小乗の善ということになるんですね。自分の子息だけを良くするということは小乗の善ですね。それを世界的にみれば大乗の悪ですね。そこで共産主義は小乗善です。他の者は不幸になってもかまわない、というのは大乗じゃないです。結局悪になるんですね。で、世の中を騒がしておいて、大衆に不安を与えても自分の主義を通そう。自分の階級、団体のみを幸福にしようというのは、小乗的にいえば非常に良いんですが、世界人類的に言えば悪なんです。そこでああいうのは一時的で決して成功しない。しないけれども、神様の経綸上やはりあれも必要なんです。つまり、善と悪を闘わして、いままでの文化を発展させたんですからね。だからこれほど物質文化が発展したんだからね。これは善悪を闘わしたためなんだから、いままでのことはしかたがなかった。ところがいつまでも摩擦させると人類を進歩させるんじゃなくて、滅亡させることになる。だからここいらで打ち切って、善悪の摩擦をさせない……させないといっても、戦争のように人殺しの摩擦をさせないんです。というのは、国際競争ですね。これはある。譬えてみればスポーツですね。ああいうふうに世界各国が優勝を得ようとしてやる……これは摩擦でも、闘争でなく競走ですね。これは大いにさかんになる。ですから神様の経綸からいうと、そういうほうに人類の頭を持っていくんです。で、殺し合いはもう打ち止めになるんです。一番分かりやすくいうと、原子爆弾ですね。殺し合いが続いていくと原子爆弾を持ち出す。そうすると人類は滅亡になりますからね。ですからここまで来て、ここで善悪の闘争は止めさせる時期になったんですね。そうすると善悪の闘争がなくなる世界になると、今度はいま言う競走ですね。そういったようなことがさかんになる。今度は芸術の世界です。人間はいままで人殺しに一つは興味を持ったんです。武士とかいろんな戦国時代ですね。つい最近に至るまで人間は殺し合いに興味を持っていた。われわれから言うと、あんな命懸けで危ないことや、危ない職業ですね。武士なんか真っ平御免だが、あれを希望して武士になりたがる人間がたくさんあった。そうすると殺し合いがいかに好きだったか、興味を持っていたかが分かる。そこでこれからの人間は人殺しの興味ということはなくなってくるんです。

 で、人殺しに興味を持っているのは副守護神です。動物霊です。だからそういう社会ができたんです。それは霊界が暗かったせいで、副守護神がのさばっていたんです。霊界が明るくなると、副守護神のカというものは非常に薄くなるんです。弱くなる。副守護神が弱くなると、本守護神のほうが力が強くなる。そうすると平和的なものを好むんです。ですから副守護神が萎縮するに従って、人間は他の楽しみを持ってくる。人を殺すんでなく、人を生かすとか人を喜ばす、ということの興味がだんだん起ってくる。それはどこにいくかというと芸術にいく。もう少し経ったら書きますが、五六七の世になると非常に芸術が好きなんです。たいてい一つの町に一つ劇場なんかできる。そうして至る所に公園ができるんです。公園や花園……そういうものができる。それで、一週間に一度ずつ町々村々で集まりがある。で、集まったときにみんな美術品を見せ合ったり、娘に踊らしたり、他の人は歌をうたったり、それを非常に楽しみにする。また文学的なのは歌をやるとか俳句をやるとか、碁将棋ですね。それによって競走する。そういう世界です。それから料理なんかも非常に発達して、そのときに食べ較べて……ごちそうを作りっこする。それから旅行ですね。旅行なんかも、ほとんど汽車賃なんか、ただみたいになるですね。それで会社とか工場とか団体的なものは、ちゃんと定期的に旅行できるようになって、そうしてやっぱり…:金持ちも貧乏人もいろいろありますが、貧乏人でも食うに困るような貧乏人はぜんぜんなくなります。最低生活といったところで楽々食べられるようになる。というのは病気がなくなりますからね。病気がなくなれば貧乏人なんか決してない。貧乏の因はみんな病気なんですからね。それから了簡がいまよりみんな良くなりますから、そこで喜んでみんな働きますからね。そこで非常に良くなる。半日働いて楽々食って行ける。そうして富豪はすべて利益を公開しますからね。この半期は三井は何億万円入った。住友は何十億の利益があった。と、はっきり公表する。そうすると、それを私に使うことはできないんですね。ふつうは三分の一だけを所得にして、三分の二を公共事業に出すんです。どういうものに出すかというと、娯楽施設です。劇場なんかですね。そこで入場料なんか、ほとんど申し訳で良いですね。金儲けが目的じゃないからね。そこで、芸術なんか非常に発達してくる。建築なんか、壮麗なすばらしいものができる。それこそ天国浄土みたいなものができる。私の地上天国の模型なんか、ごくしみったれなものでね。その時代になったら、こんなものは場末にできるようなものですよ。ですからそうなると、いろんな演劇とか映画とかは非常に違ってきます。こんな話をしていると、きりがありませんがね。いまにだんだん書きますが、とにかく非常に楽しい世の中ですね。神様はそういう世の中を造る目的で、いままで物質文化を発達させたんですからね。発達させるには、やはり悪人がなくちゃならないし、殺し合いをさせなければ発達しないし、人間発明発見……発明というのは戦争のためにあったんですから、いままでは必要だったんですね。そういうふうに考えると、いままでの戦争の時代というのは、いよいよ終わりに近づいたということは分かるんですね。

 それからこういうことをときどき聞くんですがね。私の本やなにかで裏表があると言うんですね。そういうことを聞くんですがね。一時そういうことの、ずいぶんはなはだしいことがあったです。裏表があるように見る人は邪神が憑っている。なぜというのは、いままでのお経にしろ、あらゆるものは夜のものだから、どうしてもたしかに裏表があったんです。夜の世界だったら、ここだけは月が照らすから見えるが、ここは見えない。ところが昼の世界ではここも見えるが、ここも見えるんです。だから裏表はないんですね。だから私の説いたものは、そんなことはないんです。そのまま信ずれば良いですね。それからいままでのことは根本が悪になっていたから、明からさまに言うことができないんです。そこで秘密があったんですね。あらゆるものがそうだったんですね。これは宗教も無論そうでしたね。なにしろうっかりすればキリストみたいや、日本のいろんな偉い坊さんでも島流しになったり、殺されようとしたりしたから、どうしても明からさまにできない。秘密にしたんですね。われわれだってそうですよ。終戦前はそうですよ。はっきり言えなかった。だから『明日の医術』でも曖昧極まるものがあったですが、あれははっきり書けなかったんです。ところがいまはそうではない。言論の自由ではっきり書けるから、今度の『結核信仰療法』ははっきり書いた。日本がそういう民主的になったということは、昼間の明るい時期に一歩近づいたわけですね。そういうわけですから、メシヤ教というのは昼の世界を造る。昼の世界になるについて出現した宗教です。ですからいままでの日本の宗教と違うんです。だから私の言う通りにやれば決して間違いない。裏があると思ったら間違いですね。だから素直になれ、というのはそういう意味ですね。素直にそのままやれば、すべてうまくいくんですね。

 それからもう一つ肝腎なことは……これについて二、三日前に宮本武蔵の絵を買ったんですが、今度美術館に出ますが、達磨さんの絵です。実に上手い。驚いたですね。支那の宋元時代の名画に遜色ないですね。国宝も一つあります……宮本武蔵の絵のね。そこで武芸の達人になると、すべてのものも、やはりその奥義に達するんですね。これは非常に、知っておいても良いことなんです。いろいろな種類がありますがね。部門ですね。絵でも彫刻でも芸能でもまた文学でも、日常生活ですね。あらゆる人間生活に種類がありますが、このうちの一ついきますね。そうすると他のものも、そこにいくんですよ。下にさがっていてもね。これがおもしろいですね。そこで武芸の達人なら達人になれば、絵を画いても武芸の達人の所までいくんです。そこで字の上手い人は絵が上手い。絵が上手い人は字が上手い。こういうことになる。私がなにをやっても上手くいくということは、霊的に魂が上にあるから、あらゆるものがこう(上位に)なるんです。だから庭を造っても建築をやっても……最高の庭になるんですね。建築でも最高の建築になるんですね。それは別に教わらなくても、自然にそこにいっちゃう。

 そこで美術館を造って、名人の良いものを見せるというのは、そこに意味がある。だから美術の良いもの……高いものを見ると、その人の頭がこれに接近しますから、やはり信仰で身魂を磨くのと同じ結果になる。ただ昔の人はいろんな難行苦行をして身魂を向上させたものです。それは地獄の信仰です。つまり夜の世界の信仰です。そこで私は天国的宗教ですから、昔の人が水浴びたり断食したりするのと同じ結果になる。それは行動からいえば、たいしたものなんですが、売薬と違ってこういう場合は大丈夫です。そういうわけですから、神様はつまり美術を大いに利用したんですね。聖徳太子はそういう考えだったんですが、時期が早過ぎたんです。だからあの時代だけ救うには効果があったが、あの後やっぱり夜の世界ですからね。ただ美術だけは残ったが、思想的にはたいした効果はなかった……とはいうものの、奈良にあれだけの美術を作って残してあったために、ときどき人間が行って、それから受ける刺激によって、いくぶんかの効果はあったに違いないですね。違いないけれども、時期がつまり言わば早過ぎたんですね。夜を出ないうちにやったんですね。今度私がやるのは、ちょうど夜明けの時期になったから、時期もピッタリするわけですね。そんなわけで、いまの宮本武蔵の偉さというものは、なんでもそういったような、名人というものは、そういうものだということです。そうして武芸の達人にしろ、あらゆるものの達人というものは、ちょっと考え方が違うんです。ここのところが大乗道の上のほうのものなんですね。ちょっと分かり難いですが、一番手っ取り早くいうと、武芸の本当の名人になると腹の力を抜くんです。よく人間は腹に力を入れろというが、あれは本当じゃない。間違っている。だから、力を入れるとか、頑張る……そういうことがいけないんです。だから決して頑張ってはいけない。頑張ると力が限度になるからね。頑張らないのが非常に力が出るんです。ちょうど浄霊で、力を抜くほど効果があるというのは、それなんです。だからいろんなことを人が言ったときに、どこまでも自分の主張を通すという、あれがいけないんです。愚かになるんですね。私が素直にしろ、素直にしろと言っているのは、素直にするのは勝つんです。最後には勝つんです。従わせるほうが下になっちゃう。よく負けるが勝ちと言いますがね。議論しますね。こっちのほうで負けますね。そうすると勝ったんです。なぜなら議論したほうは、主張を言っちゃったんですから、あとはなにもない。素直に負けたほうは、どんなものを持っているか分からない。だから勝った人は恐いんです。負けた人はなんでもないんです。ひどい目に合わされた人は、一時は恐い思いが、時間が経つに従って決して……不安はなくなるんですね。むしろ先方は満足しているだろうと思うから、こっちのほうは気が明るい。ひどい目に合わせたほうは、あいつは怨んでいるだろう。仇討ちをしないだろうかと、気が苦しいんですね。だから負けたほうが勝っているんです。だからなんでも負けて先方の言い条を通させるんです。これは腹の力を抜くのと同じです。だから私はどんな部下の、つまらないことを言っても、できるだけ言うことを聞いているんです。私が主張を通そうとするときは、悪に蹂躙されるときだけは強いんですが、そうでないときには従っているんです。よく世の中では部下の言うことを聞くと、値打ちがなくなるように思うんですが、実に滑稽なんですよ。バーナード・ショウがよくそういう喜劇を書きましたが、一つの喜劇なんですね。私はマッカーサー元帥がフィリピンで攻められたときに逃げましたが、逃げるときに……いずれまたここに来るからと、逃げたんですね。あのときに私は、マッカーサーというのは偉い人だ。いまにたいへんな仕事をするから、と言ったことがあるが、それは負けたからです。逃げたからです。とにかく軍人で逃げるくらいの軍人は名将になるですね。どこまでも命を捨てて向かってくるのは、ごく下の下ですね。そういうようなわけで、結果というものが、非常に違うんです。そこでさっきも言った通り、一時的ですね。医学で一時的良くなっても駄目で、永遠に……将来まで良くなる。それが真理だという理屈にも思うんです。だからいま言った負けるが勝ち流に世の中を渡れば、必ずうまくいくんです。結局勝つんです。ですからあらゆるものが、世の中のことは逆が多いんです。ですから逆の結果、道の現われかけ……そういうことをみて、それに学ばなければいけないんですね。そうすると楽々と成功するというわけですね。それで私がメシヤ教を始めた時分の……その前からですが、できるだけ人に知れないようにしろ、宣伝的のことを決してやってはいけない。目立たないように目立たないように、ヒッソリヒッソリするように、とみんなに言ったんですが、よく宣伝的にもっとやったほうが良いと言った人がありましたが、私は知れないように知れないようにやった。ところが知れちゃった。これが逆効果です。だから知れるように宣伝的にやった宗教というのは、あんまり知れないんですね。しかし他のことはそうではないですよ。売薬とか石鹸とか、ああいうものはしますが、そうではない本当の仕事ですね。それはできるだけ地味にしたほうが良い。ですから支部や分所を作っても、世間に知れるようにしたら、かえって知れない。知れないようにしたほうが知れるんです。こういうことを言うときりがないから、この辺でなにしておきますが、そういったようなことを私はボツボツ書いてますが、これは一つの『聖書』みたいなものですね。『聖書』は良いことが書いてありますが、なかなか解らないんです。それにあの時代は、時代も違ってますからね。あれをいまの人間に合わせようと思っても、なかなかね……「金持ちを救うのはラクダを針の穴に通すがごとし」と言ってもね……そうすれば金持ちは絶対に救われないことになる。あの時代はあれで良かったんですが、いまの時代に合ったようなことをいろいろ書くつもりですがね。話はそのくらいにしておきます。

「『御教え集』一一号、昭和二七年七月一五日」 昭和27年07月15日