昭和二十七年三月十日 垂録07  (4)救世教の信者全てが救われるわけではないこと,神兵について

(前節の続き)

 〔 質問者 〕『結核信仰療法』が頒布されますと、医学界からの反撃もあると思われますが、それは邪神との闘いという言葉を使いましても、よろしいものでございましょうか。神様の御経綸は絶対のもので、私たち資格者がしっかりした覚悟を持っていなければ。

【 明主様 】それはありませんよ。というのは、私のは真理だからね。

 〔 質問者 〕兵という。

【 明主様 】そうです。神兵ですよ。

 

〔 質問者 〕玉砕するということも、お役に立つまでの運命と。

【 明主様 】けれども、玉砕はないですよ。それで、ちゃんとそういうところは、神様が準備してありますからね。言論の自由なんて、神様が準備されたものです。言論の自由にするには、日本を敗戦にするよりないからね。どうしても一度は発表しなければならないんですよ。闘おうが闘うまいが、そんなことは問題ではない。闘うというが、こっちは、救うつもりですからね。向こうがふっかけてくるんだからね。別に武器を持ってするんじゃないからね。安心なものですよ。ああ、これはたいしたものだと、最初から軍門に下ると思って間違いないですね。闘いですよ。私なんか霊的にも軍人ですね。毎日闘ってます。書いてあるがね。

 それから、こういうことを知っておかなければならないですね。今度、人類救済ですからね。けれども、みんな救われるんじゃないんですよ。救われない人もありますよ。救われない運命の人が、祖先なりでいますが、救われない運命の者はしようがないんです。メシヤ教信者になれば救われると思っていたらたいへんです。大部分は救われるんですがね。

(次項に続く)

「『御垂示録』七号、講話篇第六巻p24~25」 昭和27年03月10日