昭和二十七年一月十六日 教集06 (9)

▽前節から続く▽

 私は映画を見るたびに、そういう感じがするんです。ところが、映画で見る感じというのは、いまの感じとは、また違うんです。というのは、映画のほうが行き過ぎになってますね。それで、過ぎたるは及ばざるが如し、となる。特に日本の映画は、客を軽蔑しているんです。実際にあり得べからざることですね。私は、一番嫌だと思うことは、ピストルの射ち合いしますね。すると、主人公には決して当たらないです。どうでもよい人間には、弾が当たりますね。ところが西洋映画は実に自然なんです。どんな偉い人でも、弾が当たって死んでいく。あれだけ日本映画は感覚を殺しているんです。だいたい、日本映画の狙いは若い者ですね、映画を見るのは若い者ですから、ただおもしろければ良いというのでね。若い者でも……映画を見たてのごく低級なのはそうですが、見慣れた者はそうではない。

 チャンバラですね。二〇人も三〇人も相手にして闘っているでしょう。実際にあんなことができるわけがないですよ。私は、馬鹿馬鹿しくて見ていられない。どうかすると、刀を持たないで二、三人をどうかして、切り抜けますがね。あんなことがあるわけがない。それから陰に隠れて鉄砲射ちますが当たらないですね。当たらなければ当たらないで、納得のいく場面を作れば良いんですが、実に安直なんです。観客が低いように言っているが、御自分のほうが低いんです。ところが、イタリア映画で『自転車泥棒』というのがありますが、あれなんかは、費用も……ほとんど一人の人間の芸みたいですね。だから、あのくらい金のかからない映画はないですよ。監督の腕ですね。それで、グングン引きつけて……あのくらい観客を軽蔑しない映画はないですね。実にまじめな作品ですね。そういうことがありながら、どうも日本のプロデューサーや監督は、人を小馬鹿にしているんですね。しかし、私がそういろんなことを言っているそんな暇はないから、我慢してますがね。

△御講話おわり△

「『御教え集』六号,講話篇第六巻p394~395」 昭和27年01月16日