▽前節から続く▽
この間ピカソについて『栄光』に出しましたがね。それから、その後ざっと話もしましたが、それを今度文章に書いたところが、なかなかおもしろい点があるんです。
(御論文「速度の芸術とピカソに就て」朗読)〔「著述篇」第一〇巻三四六-三四八頁〕
ピカソやなにかのいろんな批評がありますけれども、あのピカソの絵が、解ったというような、あるいは解るような書き方をしてあるんですよ。あれは、私は自己欺瞞だと思っている。解るはずがないんですよ。もし解るとしたら、その人の頭がどうかしている。自分の見たまま、聞いたままを書くのが本当です。どうも、日本人は……人があんなに言うから、どこか良い所があるだろう。悪い所はあるが、それは書かないで、良い所だけを書こうと……そういうところがありますね。私は思いきって書いたんです。なにごともそうですがね。これは、絵ばかりではなく、あらゆるものがそうですね。というのは、日本人の教育が間違った教育を受けているので、ものを見破ることができないですね。本当のことを教わってないからです。そこで、要するに眼が……眼識が低いわけですね。だから私は、そういう意味から信者の人にも、本当のことを知らして……要するに本当の教育をしたいと、そう思っているんです。ですから、ああいう美術品も眼の利いた人は解る。一般の人間は解らない。画家なんかもそうですよ。俺の芸術は、一般の人に解ってたまるか。解る人は解る。それで良いんだ。と、その考えが間違っているんです。これは画家だけでなく、一般の芸能人にもありますがね。それがあんがい逆なんです。
▽次節に続く▽
「『御教え集』六号,講話篇第六巻p393~394」 昭和27年01月16日