昭和二十七年一月五日 教集06 (1)

御教え 今日は割に新しい信者さんが多いようですから、そういった話をしようと思ってます……メシヤ教というのは、単に宗教とは言えないんですね。宗教よりも、ずっと大きなものです。つまり、宗教はメシヤ教の一部にあるわけですね。だから、いままでの宗教でも、こういうふうに、病気を良く治すとか、病理を説くということはなかったですね。それは、仏教でもキリスト教でも、どういうわけで病気が起るとか、あるいはどうすれば治るとかいう説明は、『バイブル』にもお経にもないですよ。それから農作物も、無肥料にするほうが良くできる、つまり自然栽培ですね……ああいうことを説いた宗教家もなかったですね。それから美術館を造るなどというのは、ぜんぜんこれもなかったですね。そういうような具合に、宗教というものは、まず心を治すんですね。心の教えですね。そこで、結局お説教が主で、それによって精神的に救って、良い世の中を作るというのが根本だったんです。ですから病気でも、病気を治すことはできないが、病気は治らないでも苦しみながら心で諦めろと説いたんですね。キリスト教でも、御自分のほうで病院を作りながらやっているんですから、はなはだ不徹底きわまるものです。私のほうでは、そんな諦めろというようなことは言わないで、かえって諦めるなと言うんですね。そのために、他の宗教では、疑ぐってはいけない、信じろ。と言うんですが、私のほうでは、大いに疑え、信ずるな。と言うんですからたいへんな違いです。その違いさですね。それをまず、一番認識しなければいけないです。そうして、キリスト教でも仏教でも、いまに天国の世の中が来る。極楽浄土が来ると言っているんですが、私のほうでは、もう来た。来るんでなく、来た。俺のほうで造るんだと言うんですから、その違いさも、またたいへんなものです。ですから、いろいろなことをしゃべるばかりでないですね。実行するんです。どんな病気でも治し、米の増産もするし、あらゆる文化の間違いを指摘して、本当の文化というものは、こういうものだということを教えるという……一口に言えば、本当の救いですね……宗教じゃない。宗教は救いの一部ですね。そこで、その力強さ……力の大きさですね。その違いさというのは、たいへんなものです。ところが、それを……なるほどそれに違いないと信じさせるのが、なかなかたいへんなんです。信仰に入った人は、迷わずにずっとやっていれば、だんだん解ってきますから良いんですけれども、たまには迷う人もないことはないんですね。やはり、いろんな世間の噂とか、インテリ的の偉い人が、迷信だとかインチキ宗教だとか迷わせるようなことを言いますからね。というのは、いままでこういうような宗教というのは、出たことがないんですからね。だから、これを本当に解るまでにはそうとう時間もかかるし、努力もいるんですね。で、ある程度まで解ってしまえば、もう盤石のように固くなりますが、それまでですね。それまでは知るほうも必要だし……しかし、こっちのほうは理屈ばかりでない。事実に現わすんですから、その力というのはたいへんなものです。

「『御教え集』六号,講話篇第六巻p361~362」 昭和27年01月05日