昭和二十六年十二月二十八日 『御教え集』五号 (4) 

それから、また美術館の話ですけれども、箱根の裏手のほうですね。萩の家の後ろのほうですけれどもね。あそこに、いま仮に入口がついてますが、一般の人にも見せようと思うんです。これは信仰とは別の意味で、そうして入口を作って、まあ……門を作って、左手のほうに切符売場と切符を改める所と、右手の以前井上さんが住んでいた所は事務所と休憩所を……たくさん来ますからゴタゴタしますからね。美術館は落ちついて見る所ですからね。動物園とは違いますからね。ですから、人を計って見るようにしようと思います。値打ちはいくらあっても、そう高くはできない。安いと、群衆が来て、落ちついて見ようと思う人の障りになるから、適当にきめます。
そうして来年から……面会日は聞いているでしょうが、五六七にしましたから、五六七の午前中だけは、信者さんが見えることにして、一般の入場者は午後の一時から四時までですね。そうして、特種の人ですね。特種の人というのは、本当の観賞家ですね。いまはまた、美術にはだいぶ関心を持ってきた。意外に思うのは、作家ですね。ああいう人たちの間に非常にはやっている。そうして、それがまた、良い影響をしている。それは、ああいった人たちは必ず妻君携帯です。先月も四、五人ぜひ美術品を見たいというわけで……少しばかり見せてやるつもりだったんです。そうすると、みんな妻君携帯なんです。川端康成とか大仏次郎、広津和郎、高見順……みんな妻君携帯なんです。昔はああいう人たちは、妻君は邪魔で、他の……妻君ならぬ婦人ですね……そういうのを連れて歩いていたようですがね。 このごろは、ぜんぜん違っている。どういうわけかと言うと……ああいう人たちは書画骨董が好きで、それを買うんです。川端康成というのは、なんでもかんでも買っちゃう。それで始終借金だらけで、キューキュー言っている。私は先日も掛物を買ってやりました。借金で苦しんでいて、やりきれないというのでね。徳川夢声、吉川英治……みんな好きです。ああいう人たちが、みんなやってくるんです。こっちはまだそんな準備もないから、来年美術館ができるから、そうしたら充分見せるからと言ってあるんです。結局、ああいう人たちが美術を好むために非常に品行方正になった。かえって昔は、ああいう人たちは度外れだったんです。理屈をつけては、かなり不道徳なことをしていたんです。かえって、社会の人間のほうが不道徳で、ああいう人たちが清いんです。それもこれも、美術品を愛好するためで、非常に良いことです。そういうわけで、そういう人たち……またそういうのが好きな人がたくさんいますからね。ゆっくり、観賞させるために、五六七以外の日に、そういうのを見せるという計画ですがね。
今年になってから、そういう方を調べてみて……大阪、京都、東京ですね。美術館、博物館を見ましたがね。意外に思った。もう少し見るべき、どうやらしたものと思っていたが、あんがいに貧弱なんです。それはお話にならないですね。ですから、今度箱根にできた美術館だけでも、たいへんな評判になります。断然レベルが違いますから、本当に……乞食と大名くらい違うかと思うくらいですね。で、博物館なんかと較べてずっと良いつもりです。ただ、仏教芸術ですね。これだけはかなわない。それ以外は負けない。しかし、仏教芸術は負けても良いです。仏教芸術を本当に解る人はないでしょう。一〇〇人に一人もないです。私も、仏教芸術をずいぶん見ましたが、このごろどうやら分かってきた。あれは、時代を知るだけでもたいへんです。仏教芸術が最初できたのは、推古時代ですね。一三〇〇年くらい前ですね。それから、奈良時代に発展したですね。 天平……法隆寺ですね……あの時代が急激に発達した。藤原、鎌倉にいってから、また発達した。それから、いろいろ様式がありますね。支那の様式、朝鮮のもの、とね。だいたい、支那の六朝時代ですね。それから唐の時代ですね。あの時代に、秀れて良いものができた。また、同じ仏像でも、都会でできたものと、田舎でできたものは違うんです。都会といっても……奈良でできたものが一番良いものができた。あとは、鎌倉ですがね。そういった……鎌倉から、桃山時代になると、もう駄目ですね。徳川時代になると、ただきれいだけのものでちっとも面白味がない。それから都会以外でできたものは、どこか武骨ですね。田舎でできたものと都会でできたものを見別けるのが、なかなか難しいんです。絵なんかでも、あれは坊さんが画いたんですがね。それから営業的に……画いたものがありますが、ちょっと違うんですね。この間京都に行ったが、兆殿司がいた寺に、画いたものがたくさんありますが、こういう人たちは、絵としてはうまいけれども、仏教的な味はあんまりないんです。
そんなわけで、仏教の絵画にしろ、彫刻もなかなか難しいんです。その中に、できが良いのと悪いのとありますしね。名人の傑作というのもあります。ですから、そういうのを一般人が見ても、美術としての価値はないですね。ですから、私は一般の人が理解できるのを本位として集めてあります。あんまり知らない人でも、それを見て、一つの趣味が湧くだろうと思います。それから陳列場とかケースですね。ああいうものも、どこでも無関心だった。どこの博物館でも美術館でも、ガラスの箱に入れてある。あれじゃ、美術の意味はない。そういう点も、私は心を用いて、その品物に調和させてやるつもりですがね。博物館にしても、掛物を掛けても、壁はアンペラみたいなものを張って、いい加減なものを塗って、それに良い掛物を掛けるんですから、まるでぶち壊しですね。
それから品物でも、ただ、明治時代にできた箱ですがね。縁でも、鉄でできている。それに塗料を塗ってある。実に非美術的なんですね。そういうことも大いに違います。壁も……床の間の壁も、砂壁にして鴨居もつけて、天井もセメンを塗ったのでなく、木の天井にして、床の間という感じを出そうと思っている。品物にしろ、こう見て、目と品物の間隔ですね。位置と高さ……そういうものにも注意しようと思う。いまの博物館にしても、見上げるようですよ。あれじゃしようがない。お皿がありますね。裏を見たいと思いますね。それで、裏を見ようと思うと、縁の下に入るようになる。鉢ですね。鉢の中を見ようと思って、背伸びしても見られない。実に、そういうところが、非美術的で、非文化的なんです。そういうところも、大いに改良して、一つの模範的なものを造ろうと思っている。
それから、美術といっても、いろんな種類がありますからね。日本と支那、朝鮮ですけれども、私は日本を一番主にしてやるつもりですがね。日本を主といっても、第一は絵画ですけれども、絵画といったところで、だいたい狩野とか……日本画は狩野派が一番初めですからね。これはだいたい、支那の模倣ですからね。だから、日本独特のものではない。ずいぶん、狩野派で良い絵があったところで、支那と較べれば劣るんですね。ですから、日本独特のものとしては、光琳派です。なにが独特かというと、光琳は無線派といって線を使わない。支那は線を使う。線を使わないのを……有線を破ったんですね。一般も、それを鑑賞している。アメリカ人も、光琳派をというんです。その次にいって、浮世絵でしょうね。これも、西洋にないんですからね。支那にもないんです。支那に美人画はあるけれども、日本のような独特な味はないんです。しかも、浮世絵というと、いままでは版画ですね。あれが、浮世絵のように思っていたんですね。ですから西洋でも、版画が歓迎されていたですね。ボストンの美術館には、日本よりも良いものがあるんです。私は、だいたい版画は好きでない。絵そのものは第二義的になってますからね。ですから、私は浮世絵の肉筆を集めた。それがまた、割合安いんですよ。外国も日本も、あまり歓迎しないから安いんです。あれは、外人が見れば、気に入るんですが、以前から来た外人が、肉筆を見る機会がなかった。町に出ているのが、みんな版画ですから、見る機会がなかった。肉筆は個人の家に入ってますからね。私が、いろいろ研究してみると、浮世絵の肉筆というのは、すばらしいものです。その優秀なものを集めましたが、いまは、また目をつけられて高くなりましたが五、六年前には、ただみたいなものですね。
あとは、大和絵……土佐派ですね。これは支那とは違ったものです。そういうものから、東山時代の、東山水墨といってね。これは墨絵ですが、これは支那から来たものです。この中で、傑出した名人は、狩野雪舟ですね。この人は上手い。これは、アメリカの人でも、雪舟の絵だけは買うんですね。日本人のでは、あとはかなわない。それから啓書記、周文と……これも上手いですね。そのあとにいって相阿弥、芸阿弥、能阿弥とある。相阿弥というのが、一番上手いんですね。私も持っていますが、あとは見るべき日本画はないですね。近代に至っては、ほとんど、これはと思う人はない。近来は栖鳳でしょうね。社会じゃ速水御舟を珍重してますが、御舟は私は感心しないんですよ。なぜ感心しないかと言うと、宋時代の徽宗皇帝が画き始めたので、純写生の……これをまねているんです。それを知らないから、御舟独特のものと思って、高くなっているんですがね。それで、私は模倣ということで、嫌だ。あとは現代人としては大観、春章でしょうね。それから玉堂……その辺でしょうね。あとはないですね。しかし、そういう者の傑作品は出すつもりですがね。特に栖鳳の傑作品は、びっくりするようなものを出すつもりです。絵画はそのくらいのもので……それだけにしておきましょう。あと彫刻、陶器、蒔絵を話してないですが、これはまた折々話しましょう。

「『御教え集』五号、岡田茂吉全集講話篇第五巻」 昭和26年12月28日