「結び」についても……この間ダレス国務次官補ですね……あの人が、この間……どこかで講演しましたが……そのときに、これからは東洋の代表者としては日本だ。西洋の代表者としてはアメリカだ。だから、アメリカと日本を結んで、初めて平和的世界ができるんだ。というように信じている。ということを言われましたが、これは私が以前に言った、東洋の経が日本で、西洋の緯がアメリカだ。いずれは結ばなければならない。というのと良く合っているんで、私はおもしろいと思った。そんなわけで、いま言う芸術もやはり結ぶわけですから、それで良いんですがね。その動ですね。動の極致になった、いわゆるジャズですね。それがピカソの絵なんです。というのはピカソの絵というのは動くところを画くんです。いままでの絵というのは、静止しているところを画いている。だからはっきりしている。それを、動くところを画いてあるんで、その説明をすると、どうやら解る。例えてみれば、人間でも横を向いたところを画く。すると半分が正面で、半分が横でしょう。だから、かためて、鼻が二つあるようになる。またあるときは、顔が重なり合う。それから建物、汽車や電車あるいは自動車を見た場合にこう(線のように)なる。それを画いた。だから線ばかりで幾何学的に画くことになる。こっちに人間がいるかと思うと、あっちに家の壊れたようなものがある。ところが、実際にそんな動くなら良いが、ところがそこに矛盾がある。だからピカソ自身は良いとしても、それを見物するほうは災難ですよ。そういう考えを持って見れば、ある程度解らないことはないですね。ところが、絵にしろあらゆる美術というのは、人間を目によって楽しませるんですから、あれを見て楽しい感じが起るなら良いんですよ。ところがあれを見て楽しいと思う人はないですよ。どういうわけで、こういうのを画くんだろうと考えますからね。考えて解るかというと、解らないんですからね。すると、楽しみより苦しみになる。だれも、金を出して苦しみに行く者はない。だから、私はピカソは見なかったんです。この間東京に行って、高島屋でやっているというので見たんですが、だからああいう美術というのはなくなってしまうんです。要するに動が極端になったまでなんですから、長く続くものではないんです。芸術にしろ、美術にしろ、楽しめなければならない。楽しんで、良いものでなくてはならない。それによって慰めを得るし、それによって心が向上しなければならない。レベルが高くならなければならない。人間というのは、見るもの聞くものによっては、魂が高くなったり低くなったりするんですからね。いま言うように、低くなるものばかりですから、人間の魂がだんだん低くなって、悪いことをしたりするようなことになる。そこで私は美術館を造ったりして、一つの宗教ですね。魂を救う一つの手段を考えるのです。
私は、博物館の考古学的なものは、一つの参考品としては良いが、美術としては人に見せるものではないですね。一昨日も東京に行って……懇意にしているので、銀座に行ったが、博物館よりもだいぶ出品して、だいぶ見るべきものがあった。あれとても、一部は良いが、そうあんまり感心はできない。ところがサンフランシスコの博物館で見せましたものを見たのですが、仏教芸術が多過ぎたんです。ああ良いとは思いますが、何百年前、鎌倉時代の阿弥陀さんとかお釈迦さんとか……専門家が言ってましたが、そうした人で……博物館に関係した人でさえ、これは阿弥陀さんかお釈迦さんか解らずに、私に聞きましたくらい、あの人たちもまだ解ってない。だから、それを見て、聞くようじゃ本当じゃない。むしろ、楽しみより苦しみですね。額に八の字を寄せて……そういうことが、いま多過ぎるんですよ。話は違うが、ラジオでもそうです。今度民間放送ができるんで良いが、ラジオなんか、教育的なんですね。音楽なんかで一番解る。シューベルトは、元……生まれてどんなことをした。いつ作曲した。そんなことはいらない。聞いて楽しければ良いんですからね。それを、西洋音楽を日本人に教育しようという考え方は……聞く人は災難なんです。朝の一時間は堀内敬三の音楽教育をされる。本人は良い気持ちになってるが、こっちははなはだ迷惑です。美術館もそういうところがある。そこで、私はなるほど楽しめる。目から……理屈でなく、自然に知らず知らず楽しみながら、魂を高めるという方針でやるつもりですからね。要するに、美術教育にしろ、いっさいのなににしろ、そういう教育が本当です。いままでの教育は間違っているんです。つまり、子供なんかも、もっと愉快におもしろく、人格ができるというわけですね。話はいろんなほうに行ったが、ピカソの意味ですね。そういうことも知っておくと良いんですね。それをまねして、日本なんかでやってますがね。これもしようがないと思うんですがね。それでピカソがああいうふうになったのは、だいたいアメリカの金持ちの影響もあるんです。成金が、美術館を造って、それを自慢にするんです。成金がそういうものを集めようと思っても、東洋のものは集まらない。他でみんな買っちゃってある。そこで西洋の油絵を買おうと思っても、美術館が買っちゃったりしてないんです。そこで、なにか驚くようなものがなくちゃならないというので、いままでは油絵というのは、昔からの古い絵を見ると解りますが、だんだん駄目になって、結局において色のある写真だということになって、行き詰まっているところに、日本の光琳の影響を受けて、あっちが違っちゃった。写真とは反対の、印象派ができて、後世、感覚派とかできて、実際と離れた絵ができてきた。実際と離れて、離れ過ぎちゃったわけですね。それで、動きを画いてみようというヤマですね。その考え方が、非常にアメリカの金持ちに合っちゃった。それで非常に高くやったんです。そして、古いものを持っている者に、ヘンどんなものだと見せたんです。そこで、人々がピカソは、何万ドルで買ったと……だんだんせり上げて……すると一般はどうかというと、ピカソの絵は一枚何万ドルだ。それじゃ良いに決まっているというんで有名になった。それが日本に来て、日本は昔から、雷同性があるから、西洋であんなだから良いに決まっていると、偉い人が無理に押しつけちゃう。それで一般は、あの人がああ言うんだから、良いに違いないとなったんですね。一つの流行心理と言いますかね。ほとんどそれに従っているんですね。私が、この間言って……ぼろくそに言ったのが、『中部日本』に出ていたそうです。私がピカソをぼろくそに言ったというのを、なんと言いますか……変わっているとでも言うんでしょう。書いた記事は見ませんが、驚いたということはたしかです。そんなわけで、いつかは私の言うことが、これが本当だということが解る時期が来ますが、とにかく、私は本当のものを……本当の意味を書くんですから、だれがなんと言おうと、そんなことは眼中におきません。