御教え 霊憑りというのは、私は始終注意していますが、最初は非常に興味があるものでね。私なんかも最初はずいぶんやりましたがね。結局、これは弊害があるんですね。私は霊憑りをやって懲りたことがある。それから、やらなくなった。それは、ある青年ですが……大本時代ですが、その男は……店に使っていた……その時分は商人でしたから、店で使っていた店員なんです。それが、大本教で熱心になり、それで……大本教は鎮魂帰神といって、こういう格好で、指の先から霊を出す。浄霊と同じ意味ですがね。それをやっているうちに、いろんな霊が憑るようになった。憑るとおもしろいからずいぶんやった。そのうちに、とうとう精神病になって、鉄道線路に行って轢かれて死んじゃった。それで、私は神懸りというのは、危険なものだ。すべきでない、と。それで、私は止めちゃった。そういうことが、あと一、二件……頭のおかしくなったのがありましたが、それは治りましたがね。そんなわけだから、霊憑りというのは、よほど危険なものですね。ところが良い場合もある。それで私は、霊的研究をだんだんしていくうちに、良い……悪い、いろんなことが解ってきましたから、それで、良いのと悪いのとの区別が判るような知識ですね。霊的知識……それを得られれば、そう危険はないんですが、それまでにはそうとうな修行と経験がいるんですよ。ですから、一般には非常に難しいのと、それから霊界が昔と違ってきているので、いまはそんなことをしなくても、人を救うことができるんですから、ぜんぜん霊憑りに触れないで、霊憑りはいけないものだと、決めてやるのが一番安全であるとともに、霊憑りに触れる人はやっぱり発展しないんです。神様が嫌うんです。だから、霊憑りに重きを置かない人は発展するんですね。本当のやり方です。この間も書いた通り、バラモンから出たものですからね。現在、西洋で霊憑りを使ってやりますが、これは科学的なものだからたいしたことはないが、日本の行者とか、日蓮宗とか、精神病が出るんですね。本当のものじゃないからね。そういう意味を精しく書いて、新聞か雑誌に出そうと思っているが、これは、いまの神懸りに対する根本的のことと、それからだいたい知っておくべきだけのことを書いてありますからね。
(御論文「霊憑りに就て」朗読)〔「著述篇」第九巻五八七-五九一頁〕