昭和二十六年十一月五日 『御垂示録』四号 (4)

〔 質問者 〕岡山県の一信者でございますが、元神社の神職にあった人が住んでいた家を一六年前に買い入れ、家は村社稲荷の直前にあり、その家に、一五年に伏見稲荷を五社大明神として祀ってあります。妻は二八年に腸チフスで死亡。長女も癲癇にかかりましたが、ただいまはほとんど全快いたしております。兄弟四人は船舶業でございますが、仲が悪くうまくいかないので、日々心を痛めております。これは、家がお宮の直前にあるためでしょうか。または神職の家であったために位負けがするのでしょうか。また稲荷を祀っていることが悪いのでしょうか。光明如来様、御屏風観音様は御奉斎いたしておりません。いかがさせていただきましたらよろしゅうございましょうか。

【 明主様 】それは、神職であったためでもなければ、お宮の前にあるためでもない。稲荷のためです。稲荷を拝むということは、どうして悪いかと言うと、古い本に書いてありますが、だいたい稲荷というのは、百姓が稲を守ってくれというだけのもので、他になにも意味はないですよ。だから、稲荷というものは、外に祀らなければならない。田んぼの一カ所をきれいにして、そこにお宮を作って祀るんです。人間の家で祀るべきものではない。人間の家に祀って拝むというと、狐は下を歩いているものです。地以下です。狐を拝んでいれば、霊的に地獄になっている。狐のほうで人間を拝むなら良いが、人間が狐を拝むというのは、狐以下になっちゃう。狐以下の運命になるよりしようがない。だから、狐を祀って拝んでいれば、必ず不孝になります。というのは、先にも言ったが、狐というのは、だいたい、天照大神様が、最初日本の人口が増えるに従って、米をたくさん作らなければならないというので、豊受明神<とようけみようじん>に命じて、早く日本中に稲田を配るようにというので、豊受明神が狐に命じてくわえさせて配られた。だから、豊受明神というのは、狐に乗って、狐が稲をくわえているでしょう。そういう御神体です。だから百姓は狐にお礼を言って、稲作を御守護してくれと、お宮を作ってお参りしたものです。ところが狐のやつ、自分の職務以外の範囲にのさばってきた。というのは、力があるからね。なかなか霊力があるからね。終いには、日蓮上人と仲良くなって、日蓮宗は狐を利用して開いたものです。そんなようにして、だんだん狐が一大勢力を得てきた。豊川稲荷、伏見稲荷だとかいろいろできた。狐を家の中に入れて拝むというのは、地の下になることになる。しかしむやみに帰らせたり、処分したりすると怒りますからね。しかし、狐もいろんな御利益なんか与えるから、人間のほうが乗っちゃう。しかしそれも一時的で、だんだん地獄のほうに行っちゃう。だから禍いがある。だから、光明如来様をお祀りして、少なくとも一年以上経ってから、正式にお祀りしてお帰りを願う。野狐と違って、伏見の稲荷は良いですからね。解りが良いですからね。一年以上経ったらそうすれば良い。光明如来様は最高の神様だから、霊界が天国になるから、禍いが来ないで、良いことばかりくることになる。

「『御垂示録』四号、岡田茂吉全集講話篇第四巻p289~p290」 昭和26年11月05日