〔 質問者 〕お道に入り、結構なことだから、これを専門にやっていきたいと言って、専門にやらしていただいても、なかなか……二年になり三年になっても、食べていけなくなるようなことがちょいちょいありますが、曇りが多いためでございましょうか。
【 明主様 】曇りが多いか、どこかに信仰がはずれているか、両方ですね。やっぱり、軌道に乗ってないんですね。軌道に乗れば良くいく。
〔 質問者 〕自分にはその資格がないのかと思うのでございます。
【 明主様 】そんなことはない。人間で、資格がないということは絶対ない。はずれているんです。うんと御神書を読むんですね。これはだね。病気が治りさえしていれば、すがってくる人が多くて困るくらいのものですよ。そうしてお蔭をいただけば、御礼をしなければならないしね。
〔 質問者 〕地方では、メシヤ教に治してもらったら……神様にはお金を使わず治してもらえるというようなことを言っておりますので。
【 明主様 】最初はそうですよ。しかし本当にお蔭をいただけば、そうしてはいられないですよ。そういうのは、信仰が違っている。なぜなら、人によって、非常に発展する人と、発展しない人がある。非常に発展するのは、良く合っているんですね。発展しないのは、こう思って改善していかなければならない。そういう場合には、ときどきその人が小乗信仰ですね。そういう場合が多いです。発展しないのはね。だから、やっぱり大乗信仰でなければならない。気の小さい人は発展しない。気の大きい人は発展する。そうでしょう。気の大きいということは霊が大きいので、魂が大きいと、教会もそれだけ、発展する。気が小さいと、いじけているので、教会も小さくなる。だから、メシヤ教はどんなに大きい考えを持っても良い。世界中を救うというが、空念仏ではないんです。実際に効果をあげているんです。
〔 質問者 〕その場合に、神様を信用申し上げるということは、お任せするようになりますが、本人自身はそこまで到達しておらず、信用できないので、無理に自分から信じてしまうようにするというのは。
【 明主様 】いけないですね。信じても信じなくても、勝手にしろというのが本当です。信じてもらわなくても良いんですからね。
〔 質問者 〕わき起ったもので。
【 明主様 】そうです。どうしても、信じたくてしようがなければ、信ずる。それで良いんです。信じてくださいなんてね。先にありましたが、私のやり方は軽々しいとか、もう少し威厳をつけたほうが、ありがたがるだろうというのがあったが、私のやり方でお気に入らなければ、勝手にしたら良いでしょう。私はこれで良いと思ってやっているんだから、これが良いと思ったら信じなさいと言ったが、やっぱりそれが良いと思ってか、信ずる人がある。お信じなさいと言うと、霊的にその人が低くなる。と言って、むやみにうぬぼれてはいけないがね。実際に、五つは五つに、六つのものは六つにしていく。あんまり謙遜してもいけないし、あんまりいばってもいけない。その人相応にしていく。
〔 質問者 〕小乗的な行き方を反省いたしますと、親切すぎるくらいにヒントを与えているということになりますが。
【 明主様 】結構ですが、その場合に、堅っ苦しい戒律的はいけない。道徳的ですね。少しは良いが、あれにこだわりすぎてはいけない。だから、言うに言われないんですね。それから、相手によって違わなければならない。だれもかれも同じではいけない。相手によって、小さく言うこともあるし、中くらいに言うこともあるし、大きく言うこともある。それが応身の働きですね。信仰だって、相手に理解し得るようにね。インテリはインテリらしく、ふつうの人はふつうに、女子供は分かりやすく単純な話ですね。人によって違わなければならない。その修行ですよ。だから、なんでも、一番いけないのは、決めるのがいけない。こうだと、決めちゃうと、真理からはずれちゃう。そうかと言って、ぜんぜん決めなくて、でたらめでもいけない。決めるべきものは決める。決めてはいけないものは決めない。事に応じて千変万化にする。それが自由無碍です。法律というのは、定めるから悪人が出る。これは罪になるということを定めちゃうから、それに触れないことは罪にならないということになって、法律をくぐることになる。お医者でも、これはこういう療法でやる。あれはこうと定めるからいけない。つまり真理は一つです。だから決めることができないし、決めないことはいけない。決めて、また決めない。それから、はっきり言ってもいけないし、はっきり言わなくてもいけない。つまり、わけが分からない。そこに、一つの骨<こつ>を見出すので、それが最高の信仰です。だから、そこにいくと、ほとんど口には言えない。覚りですね。