(御論文「大宅壮一という人」朗読)〔「著述篇」第九巻五六一-五六二頁〕
御教え つまり、邪神側はあの手この手でやっている。邪神のうちでもいろんな、専門専門がある。智識階級があり、学術専門とか……智能犯的なものですね。そういう専門が、つまり共産主義を作ったマルクスというのであり、そういう邪神が憑って書かせた。だから一時は理屈がありそうだが、結局は駄目です。それから、戦争専門のやつがある。ヒトラーとか……いろいろな戦争で大いに偉くなって、思いのままにやろうという。そういった親玉もある。だから、こういう邪神のやり口をみると、一番分かるのは、残虐性がある。愛がない。自分の出世のためなら人が苦しんでも、命を取っても平気なんです。邪神でないのは、そこに慈悲とか愛がありますから、そこですぐ分かる。
キリストみたいに、かえって偉い人がひどい目に会っている。というのはあの時代は邪神のほうが強かった。邪神に対抗する力がなかった。ということは、以前に大きな罪を犯した。その罪がまだ体についていたために、対抗するまでの力が出なかった。相応の理ですからね。大きな邪神は大きな力がついている。私を苦しめるのは、邪神の大きな親玉です。ところが時期も違っているし、霊界もよほど明るくなっている。霊界の中にまた霊界があり、その奥の……神道でいう幽幻界ですが、そこはほとんど昼間になっている。その次の霊界が、まだ暗が残っている。いまは邪神のどんな強いやつでも私にはかなわない。邪神のうちで一番力のあるのは赤龍、黒龍ですね。いまは金龍が出てますからね。金龍にはどんなやつでもかなわない。金龍というと、私の『奇蹟物語』にあるが、三〇〇〇年間近江の琵琶湖に潜んでいたのが、昭和四年に琵琶湖から出たが、それが、いま活動してます。だから邪神のどんなのでもかなわない。しかし彼も、霊界が本当に明るくなったわけではないから……曇りがあるから、それだけ活動できないわけですね。そこで去年の事件もそういう意味だった。ところが去年の事件の意味というのは、その奥にまだあるんです。というのは、教団を乗っ取ろうとしたたいへんな邪神があった。その邪神をやっつける方法として、あの事件を起した。だから、やっぱり去年のあの事件は邪神をやる方法として、手を緩めてやらせるだけやらせた。だから、いま読んだ通り、邪神にもまんざら悪いことばかりはない、良いこともあって、いまは感謝しても良いくらいというのは、そのことなんです。そういうわけですから、神様のおやりになることは、ちょっと見ただけでは分からないことがよくある。邪神は何億といるんです。それで階級がいろいろある。神界……神様のほうとだいたい同じですね。そこで、信者一人一人を引き落とそうとして狙っている。ですから信者の人でも、ちょっと考え違いしたり、迷ったり。良いと思って間違ったりする。大本教のお筆先に「今は悪神がそこら中入りて居り、一寸の隙もないぞよ。何時なんどき悪神に侭にされるか分らないから、気をつけるが上にも気をつけたが良いぞよ」とある。みんな、信仰にある者は、抜き身の中にあるような気持ちで、ちょっとの油断もできないという意味で、なかなかうまいことを書いている。ところが神様にちゃんと手を合わせていると、御守護があり、憑けないで退いてしまう。というわけだから、そこでうまくいくんです。そういうわけなんです。それですから、いろんな宗教……信仰もあるけれども、ほとんど邪神がやっている。だから神、仏を拝んでいながら、ずいぶん間違ったことをしますが、つまり、その宗教の拝む的が邪神であったり、邪神でなくても、その神様が邪神に自由にされるんです。「お前、俺の言うことを聞かないとやっつけるぞ」と言う。神様でも邪神にかなわないのはたくさんあります。江の島の弁天様に行ったとき、お宮の中に、本尊は狐がいるんです。弁天様はいやしない。それから、武蔵の国魂神社というのがあります。官幣中社かです。立派な神社ですが、それもやっぱり邪神に占領されていた。そんなようなわけで、神社を拝む場合に、みんな神様と思ってありがたく拝むと、どうしてどうしてとんでもない。そういうのがたくさんあります。そうでなければ、世の中がこんなに悪くなっているわけがない。神様に力がなく、邪神に負けているから、こんなに禍や戦争や病気がある。というのは、こういうわけなんです。