昭和二十六年九月二十五日 地天28 「教えの光」(7)

--キリスト教徒が教義の根本としての贖罪を強調して、イエス・キリストの十字架上の受難像を信仰の対象としておりますことは、信徒の想念によりて霊界に受難の想念像を像造ることにより、いつまでもイエス・キリストの霊を苦しめることになるのではございませんでしょうか。

 もしそうであるといたしますと、贖罪主を地獄に磔にして信ずることにより救われるという教義の一大誤謬を思わしめるものであります。

 右は転向者I・F(教師)が去る一〇月一七日次女「A」(カトリックの熱心な信徒)が、「御心のイエス様」という胸にハート型を抱かれる御像を求めて帰ったことにより、かつて教会において聞かされた話「約一世紀前ある国のキリスト者(マリヤ・マリという修道女)にイエス様が現われ給い人類のために血潮を流し尽くしたのにこの苦しみを償ってくれない、せめて月の始めの金曜日の御ミサを受けてほしい」との意味の言葉を想い浮かべ、その日よりイエス様のために善言讃詞を奉唱し続けておりましたところ、たまたま一一月一日夕方、T(昨年三月一三日帰幽、 その後本教への疑念の浮かぶごとに、夢または幻によりて本教の正しさを強調しております)Tは観音のお使いだ、お使いだと独り言を言っている自分にハッと気づき、そんなもったいないことを、とみずから否定とも肯定ともつかずおりますと、その夜の夢にTは大国主命のお使いだという意味を見せられていたそうであります。その後一一月三日夕方、御不浄にて直観的に十字架の受難像のことが頭に閃いたとのことであります。このことは、明主様のお許しいただく日まで、口外することは絶対許されないことでありますが、かつてキリスト者であった自分の心の中にだけその真実を知り得て、今後キリスト者たちへの布教の信念といたしたいと願っております。しかり、否、の御言葉にても御垂示のお許しを賜りたく伏してお願い申し上げます。

 キリストの贖罪は、万人の罪を一身に引き受けて、償われたので、その大愛に対して感謝し礼拝し祈るのである。従って、いままではそれでよかったのである。ところがメシヤ教の信者になれば、その必要はなくなったのである。というのは、もはやキリストは再臨されたからである。これには深い神意があるが、いずれ詳しく説くつもりである。

「『地上天国』二十八号、岡田茂吉全集講話篇第五巻」 昭和26年09月25日