それから、いま『文明の創造』は「宗教篇」を書いているんですが、だんだんだんだん宗教に入り、深い所にいくわけです。
(御論文「唯物医学と宗教医学」朗読)〔「著述篇」第一〇巻二七八-二八二頁〕
こういう具合にいろいろ説いていくんですが、興味があって、知らず知らず深い所が分かっていくんです。深い所に入っていくと、なかなかおもしろいんです。仏教から神様に入り、そういう関係を説いていく。そういった宗教的ないろいろなことはすっかり分かることになる。いままでの宗教というのは、曖昧模糊だったんです。それは夜の世界のことを説くものだからしかたがない。本当に説いたら、どうしても、仕事をする気にならなくなる。そこで、うまくぼかして、無理な欲望など抱かせない。そのために苦しみが生まれる。それを助けるためにお釈迦さんは、ぼかして、ぜんぜん諦めさせないような、諦めさせるようなことを言った。仏滅後五六七の世が来るというのは、諦めさせないようにですね。そういうわけだから、後世の学者やそういう人たちは自分流の考えで、いやに七難しくして、非常に神秘な尊いもののように作ったんですね。だから、本当のことが分からないからして、いろんな説ができ、いろんな宗派ができた。結局、迷いをなくするために一生懸命やるのが、迷いを増やしている。そうでしょう、肝腎なことを説いてなかった。また説いてはいけなかったんですね。キリスト教なんか、『バイブル』などは良いですが、徹底しない。「汝なにをするな」「汝なにをせよ」と言うがどうしてそれをしてはいけないということを説いてない。丸飲みにすれば良いが、そうはいかない。だんだん文化が進歩してくると、理屈をつけるようになる。合理性を持ってくる。そうすると、あんな宗教というのは空みたいなものになる。そうすると、物質的に進歩した結果、悪の発生になる。悪の発生のために世の中が悪くなる。人間が苦しむ。だから結局、いままでの世の中は、不徹底きわまる、曖昧模糊としたものです。だから、そういうものと諦めるよりしかたがない。ところが、今度は昼間の世界になるから、はっきり分かってくるからして、迷いがないばかりか、人間の思う通りになる。なにが思う通りになるかというと、健康です。人間というものは、病気というものはないものだと思えなかった。どんなに偉い人でも、いつ病気にかかるか分からない。これだけは取れない。事実偉い人になっても病気で死ぬからね。お釈迦さんでも病気で死んだ。そうしてみると、本当に安心ができない。ところがメシヤ教では、病気の心配がなくなるんですからね。私の娘が結婚した婿になるのが、この間会社で健康診断で、結核の初期だと言うんです。いま来てますが、そんなのはすぐ治るからすぐ来いと言って、なにも心配ない。非常に喜んでいる。これが世間だとたいへんだ。子供がありますから、染るとたいへんだと、隔離されて、絶対安静で、どんなことになるか判らない。ところがこっちは平気ですからね。そんなものは風邪引いたくらいです。この安心はいままでにないんですからね。そこで、これで五六七の世の一番肝腎な根本ができたわけです。人間が地上天国の資格者になっているんです。結局、いつも言う通り、病気の心配、戦争がなくなる。だんだん進んでいくと戦争の原因を書きますが、病気と戦争がなくなれば、それでいいんです。あとはすべて解決する。今度の講和会議など、各国がいろいろ……日本もそうですが……いろんな国際法だとか、連盟だとかいろいろ作ってます。国家も……社会組織、経済組織と作りますが、結構なんです。良い組織なんです。ところが、やる人間が駄目なんです。だから悪くしてしまう。良い人間が法律を運用すれば……法律なんかいらないくらいのものです。これを悪い人間が使うと、法律を逃れるとか、ひっかかるとかとなる。だから、法律というものは、かえって悪の働きをすることになる。今度の『新しき暴力』の付録にも書いてあるが、悪を取締る御本人が悪をしようというんです。だから被告はいばってますが、警察官なんかビクビクしてます。この間のときなんか……弁護人も勇気がないんです。勇気がないと言うより……悪いけれど……心の底に確たるものを握ってない。だから、おっかなびっくりしながら役人に向かっている。だから私は立ってウンと……叱ってやったんです。先も気の強い奴だと思ったらしいですがね。こっちは正当なんですからね。私を調べた警察官ですが、検事から招ばれて証人になっていたが、嘘っ八です。「あなたが言っているのはほとんど偽証だ」「そんなことない」「そんなことないと言ってもぜんぜん嘘だ。偽証ということを取ったら、私のほうはなにも罪はないじゃないか」馬鹿馬鹿しいと言ったらない。「それじゃ水掛け論だから止すが、私がせめられてひっくり返ったことが二度あるが知っているだろう」「知らない」「もう一人の人がおぶって行くのを見たでしょう」「いや」「気の毒そうな顔して見ていただろう」「いやそんなことはない」浅ましいものです。罪をさばく御本人が、嘘吐いたり忘れたと言っては問題にならない。ついに「あなたのような人間に話しても、しようがないから、あなたが本当になったら話をしよう」と言ってやった。なにしろ水掛け論をやっているんですからね。「私は水掛け論は嫌だからこれで止す」と言った。裁判長は笑っていました。すると検事の先生「裁判長、笑うというのは止してもらいたい」と言うんです。笑いたくて笑うんじゃない。笑わざるを得ないんです。だから笑わせる奴が悪いんです。というのは、知れきった馬鹿馬鹿しい嘘を言うからで、憎むどころじゃない。それを通り越している。裁判所の神聖を穢すのは先生たちです。こっちは笑わせられるんですからね。馬鹿馬鹿しいものですね。ちょうど、いままでの世の中がそういうふうになってますね。
「寸鉄」ですがね。結局同じようなことを言うようなことになるので、「寸鉄」のほうは、なにか問題があるとか、気がついたときに書くようにして、いままでのように、始終無理に書くことは止そうと思う。今日はたった一つありますが、そういうような意味で、あんまりいままでのようにできないかもしれませんが、そのつもりで。