昭和二十六年七月二十五日 地天26 「教えの光」(7)

 〔 質問者 〕T・H(四四歳)と申す者でございますが、龍玉につき御教え賜りたくお願い申し上げます。
 龍玉について私の存じておりますことを書かしていただきます。私の実家(静岡市)M家当主で一三代目になりますが、曾祖父の代に、当地伝馬町宿にM・Gと申して徳川氏の御用商人をいたしておりましたが、徳川氏瓦解の折、ある方より家宝として、龍玉を譲り受けまして以来、所持いたしておりましたが、祖父の代に家運も衰えてまいりましたため、先に横浜へ支店が出ておりましたので、一同横浜に引き移り、二三年間在住後、郷里に戻りました。その間の出来事でございます。

 父は当時、東京大学、京都大学へ持参し鑑定を頼みましたが、結局鉱物やらなにやら解らず、昔から言う、龍の持ち遊んだという玉だろうとのことでした。その後、人をもちまして外人の方がぜひ欲しいと申され、話ができていよいよ受け渡しということになりましたところ、都合が悪くなり駄目になることが再度でございました。

 そのうち父も病気になり、当時東京の隠田におられた方(ある宗教家)が宅にみえて申しますには「それは霊的にたいへんな御霊の憑っているものを、民間において、しかも骨董的取り扱いをいたしているから悪いのです。さっそく氏神様へなりとも納めて祀るべきだ」と言われましたので、横浜の三ノ宮神社へ納むべく父と兄が持参いたしましたところ、三ノ宮の祭官長と次の方が、前夜大雨の夢を見られ「きっと龍神様のお渡りがあるのだろう」と語られたところへ伺いましたので、さっそく御承知くだされ、宝物殿へお納めいただきました。その後、関東の大震災に逢いましたため、父が心配のあまり三ノ宮へ伺いました折、神官より「実に不思議な話がございまして、それは火災中、本殿も別屋も焼けはじめましたので、宝物殿も駄目だろうと思って、屋敷の隅にあります池に入りじっと見ておりましたところ、宝物殿の庇より雫が雨垂れのように落ちて、そこだけ免れました。本当に龍玉のお蔭です」とたいへん喜ばれました。その後一家が静岡に引き揚げ(郷里に帰り)御縁で大本教に入信いたし宇知麿様お見えの折、母よりその話を申し上げましたところ、御帰京後、聖師様へ聞き上げましたら、その玉は今後たいへんな御用をなさる御霊ゆえ、長い間待っておられたとのこと。さっそく三ノ宮へお話し申し上げ、快く御承知いただき、兄がお伴いたして亀岡の宝物殿へお納めいたしました。その折、祖父(父は前年他界いたしております)が「お納めいたせばいつの日に拝せられるか分からぬゆえ、家内中拝見いたすよう」言われまして、私もはじめて拝したしだいでございます。それは三重の桐箱に入れて、古い赤の布団の上に直径三寸ほどのもので、黒色を帯びた鼠色で底光りがいたし、中央と思わしき所に(真と申しますか)眼のようなものがありましたように記憶いたしております。また中箱には玉の経路が書いた古書も同封いたしてありまして、初め九州の浜に打ち上げられたのを土民の者が城主の姫様に奉り、その後、豊臣家に献上いたし、戦賞として家臣へ渡り、その後、徳川家康公の御手に入ったのが、だんだん家臣から民間へと譲りしものと聞きおりました。なお一説には支那から豊臣氏への献上品と申しました。ただいまでもおそらく箱の中に書いたものが入っていることと存じます。

 数年後、大本教の事件の際どうなりましたことかと思っておりましたところ、親戚の者よりその後の様子が分かりました。一時京都の民間に渡り、再度大本教に落ちつき、このたび大八洲神社の御神体としてお祀りいたすことになられたとうけたまわりました。私も今日まで、龍玉について種々不思議な点、ならびに奇蹟がございましたので、霊的にいかなるものでございましょうか、龍玉につきお伺い申し上げます。

【 明主様 】 それはおそらく琉球にあったものと思う。それがなにかの事情で海へ落ち、九州へ上がったものに違いない。琉球とは龍の玉という意味で、これは非常に深い意味のあるもので、この玉の力は将来救世の経綸上あることに使用するものであるから、いずれ私のほうへ来るべきものである。しかしまだ時期が来ないので、神様は大本教に保管さしてあるのである。この玉の働きはいまは発表するわけにはゆかないが、右の意味であると思っていればいいのである。

「『地上天国』二十七号、岡田茂吉全集講話篇第五巻p422」 昭和26年08月25日