昭和二十六年五月二十日 『教えの光』(浄霊および信仰)(6)

御伺い 邪神はことさら正神らしく見せかけるように思われますが、いかがでしょうか。

御垂示 これは無論そうであって、最初から邪神と判られては人間のほうで警戒するから、邪神の目的は立たぬ。どこまでも正神と見せかけて間違ったこと、悪いことを、善いこと、正しいことのように思わせるものである。邪神はいわば人間界の詐欺師のようなものである。これを認識しないと邪神の術中に陥るのであるから、よほどはっきりとした眼識をもたねばならぬ。

 私の『信仰雑話』を書いたのも、一つはそういうものにしっかりした判別力を植えつけるためでもあるから、どうしてもこれによって智慧証覚を磨かねばならぬ。従って邪神の言動は立派に見えても必ずどこかに欠点のあるもので、容易に見破り得るのであるが、人間はその判断がつかぬため他愛なく騙されるのである。例えば共産主義のごとき、これは自己の階級だけを愛し、他を打倒しようとする間違ったものであるが、主義者はこれこそ大衆を救う唯一のものであり、絶対の真理だと信じてやっている。それだけにまた非常に強いところがある。

 また社会主義のごときもそうで、これが本当のやり方で、これによって社会は救われると信じきっている。この主義によると、愚者も、智者も、恵者も、偉人も平等に取り扱おうとする。そこに不公平がある。大自然を見てもいっさいにおのずから階級がある。偉人とか智者は、社会からそれ相当の地位を与えられ、優遇さるべきが本当であって、それによって社会の秩序が保たれる。また社会主義は人間の競争心をなくそうとするが、これは、文化の進歩を阻害することになる。競争心があるんで進歩発展するのである。次に資本主義もはなはだ間違っている。これは、金力をもって大衆の幸福を蹂躙することになるからである。どうしても全体が幸福を得るという、全体幸福主義というような新しい思想が生まれなくてはならない。そこまで文化が向上することを念願として進むべきである。

「『教えの光』、岡田茂吉全集講話篇第五巻p342」 昭和26年05月20日