--昔反対していたような人が来て、「もうすこし判るように話してくれていたら」ということを言っておりま すが。
そういうこともあるにはあるが、先がもっと判ろうとするほど来ないからね。指導者の熱意とか頭の働きとか言う点もある。それから本人の生ぬるい点もあるし、時節の来ない点もある。例えば罪があるため、最高の神様にお会いできない場合は、延びますから……一概に良い悪いは定められない。時期は恐ろしいもので、私が大本教に入ったとき、甥が中学生で、綾部に行って、川があるのですが、そこに落ちて溺死した。それは私の兄の跡取りになるので「お前が大本教に入ったから、あそこに行って死んだのだ。大本教は敵だ」と言うのです。私も、現実にあったものだから大本を止した。それから五年目に綾部に行った。それから熱心になった。ああいうことも私の時期だね。最初のときは時期が早かった。五年延ばしてちょうど良かった。ただ早く行くばかりが良いわけじゃない。その点はいろんな霊的な意味がある。断定をしないで、おもむろに見て、時を待つということが一番良いですね。
「『御垂示録』六号、岡田茂吉全集講話篇第四巻」 昭和26年04月01日