昭和二十五年三月五日 第一回五六七大祭での御講話

 救世教になってから第一回の五六七大祭で、非常にめでたい日である。

 釈迦滅後二六〇〇年、キリスト没後二〇〇〇年で六〇〇年の開きがあるが、これは二六〇〇年を詰めた意味である。

 釈迦は経で、キリストは緯で、これが結んで神の働きになる。これもよく合っている。

 キリストは緯であるから広い。仏教は経であって、緯の働きはない。

 メシヤは、最後の審判のとき、救いに出ることになっている。

 キリストの時代、イエスがメシヤか否かということになり、メシヤではないということになった。そしてキリストもメシヤなりとは言わなかった。

 万人の罪を負って、十字架に立ったと言った。いまもって論議はあるが、今度はっきりする。メシヤ会館も来年の五六七祭までにはぜひ間に合わす。一五〇〇人入れる。

 神様のほうは大きい計画である。一昨日、アメリカ……。アメリカには大仕掛けのものがある。瑞雲郷はアメリカの好みに合う。(速記)

「岡田茂吉全集講話篇第三巻p347」 昭和25年03月05日