〔 質問者 〕「悪と戦う」ということと「悪に負けない」ということとは、いかなる心得を堅持していれば間違いはないでしょうか。
あのね、悪と戦うって言ってもね、本当は戦わないほうがいいんですよ。けど、悪に負けちゃいけないんです。勿論、一時は負けたっていいけど、最後には勝たなけりゃいけない。だからそこに辛抱がいるんですよ。私は悪に負けないから、ときにはこっちで裁判を起すこともあるんです。中には昭和一三年に裁判を始めてようやく今年になって勝ったのもありますよ。しかもそれは一審で負け二審で負け、とうとう大審院で勝ったんです。〇〇さん、あんた知ってるでしょ、あのGの問題ね、今度示談になって私のほうであれを買うことになったんですよ。
〔 質問者 〕ああそうで……、ずいぶんしつっこい奴で。
いや先方もこっちをしつっこいって言ってますよ。岡田くらいしつっこいのはいないってね(笑声)。あれだって途中で先方から示談にしようって申し込んできたんです。けど、私は嫌だって断ったんですよ。そしたら、「いつまで経っても解決しないから」って言うんで「どっちか死ねばいい、そしたら解決する。あとの人は面倒臭いからやめてしまうだろうから」と言ったら「いや、どうも……」って言ってましたがね。
私は悪には絶対に負けない。勿論、こっちにちょっとでも悪があっちゃ駄目ですよ。去年も〇〇と戦ったけどこっちが勝ちましたよ。あれはとてもおっかないんですよ。だから「それは無茶だ、どんなことされるか判らない」って心配する人もありましたがね。私は「無茶でもいい。私は世界を相手にしたって悪には負けない」って言ったんです。でそれもとうとう追放になって本国に帰されましたよ。『読売新聞』のときだってそうですよ。「あんな大新聞を相手に喧嘩しちゃあ損だ。先方は一応力があるんだからどんなことされるか判らない」と言われたけど、そのときも私は「相手が大新聞であろうと、力があろうとかまわない。たとえ日本中の新聞を相手にしたって、私は悪とは戦う」って言ったんです。私は悪には絶対に負けませんよ。一時負けても最後には必ず勝つ。……信仰してる人はそうでなけりゃ嘘だ。正しい神を信仰してるんなら必ず悪には勝つはずなんだから。悪に負けるから悪が栄えるんです。
以前、私が実業をしていたとき、三越と取引をしてたんですが、三越に不正があったんで、私は断然取引をやめてしまったんです。ところがこっちはチッポケな店だったんですからね、向こうは呆れ返ってましたよ(笑声)。しかし、最後にはとうとう頭を下げてきましたがね。
人間はね、正しいことさえしてれば、なにも心配したり怖れたりすることはないんですよ。
〔 質問者 〕悪に負けないということは、なにもせずに時を待つことでしょうか。
いや、なにもしないんじゃいけない。やはりこれも時と場合によっていろいろなんですよ。相手が訴えて裁判するって言うならこっちもそれに応じたらいいし、ときにはこっちから裁判することもあるんですよ。この前もある土地を買ったところが、それからあとで先方がその土地の木を伐ったので、こっちから訴えて裁判をしたことがありますがね。……なんでも極端はいけないんです。時と場合によってね、うまくやってくことですよ。先方が撲ってきたらよけりゃいいんです。撲ってるのにわざわざ顔を突き出しちゃあ。(笑声)
(信者に関し某教会と某教会の間で起ったいざこざについて)
これは心得とくことですね。自分のほうがいいって言うのは悪いんですよ。なぜなら、自分を善いとし他人を悪いとする心が悪いから悪ですよ。よく、先方の教会を悪く言う人がありますが、そんなのはアベコベに解釈することですよ、そのほうがたしかですね。
〔 質問者 〕その場合、弁解いたしますことはいかがでしょうか。
いや、いま話したのは他人同士だから弁解じゃありませんね。……もし自分が悪く言われたときには、一通りは事情を話したらいい。そしてそれを信じる信じないは先方の勝手に任せたらいい。だから、一応は弁明する。そしてその先は神様にお任せしたらいいんです。そのときだって一々弁明しなくたってかまやしませんがね。正しいものは勝つに決まってるんだから。けど、気持ちが悪いですからねあんまり変なこと言われるとね(笑声)。……白隠禅師の有名な話がありますね。不仕末して子供のできてしまった女が禅師の所へ逃げ込んできたので、禅師はその女をかくまってやったうえ、その子を自分の子だと言ったんですね。それを聞いてその女の親は怒って、生き仏のごとき白隠禅師がそんなことをするとは怪しからんってわけで、村人たちと一緒にみんなで禅師を村から追い出してしまったんです。そのとき白隠禅師はなんとも言わなかったけど、何年かして本当のことが知れ、今度はたいした坊さんになったんですね。だから言い訳なんかしなくたっていいんですよ。