昭和二十五年二月二十八日 講話(5) 光録17

〔 質問者 〕私は昭和二三年七月入信、一二月御神体をいただきましたがいずれも妻の諒解を得ずにいたしました。約一〇月ほど遅れて妻も入信いたしましたが翌日御守りを外し、間もなく私が本部に泊めていただいたことに腹を立て翌日御守りに御無礼いたしました。私は驚いて、大先生様の御写真、御神体にお詫び申し上げました。これは私の罪でございます。どうぞお許しくださいませ。

 これはお詫びですね。
  

〔 質問者 〕それが、御光りを破いてしまったのでございます。

 破いた? だれが? この細君がですか。
  

〔 質問者 〕さようでございます。御光りを破いて丸め、焚付けにしようとしたそうでございます。
 

 ほう……なにか他の信者なんですか。
  

〔 質問者 〕以前他の宗教をやったことがあるようでございます。
 

御光りに御無礼したってのはそういうことですね。
  

〔 質問者 〕さようでございます。
 

 で、奥さんが教修受けてからですね。
  

〔 質問者 〕はい前の晩主人が外に泊まったので嫉妬もあったようでございます。どうもその細君には狐霊がついているようでした。

 その御亭主は前になにか信仰してたんですか。
  

〔 質問者 〕なにか稲荷を信仰しておったようでした。

 ま、神懸りじゃしかたがない。しかし、改心しなけりゃいけませんね。けど、こういうのは細君がよく判らないうちに無理に教修を受けさせたんじゃないですか?
  

〔 質問者 〕そうらしゅうございます。

 そうでしょう、それがいけない。破いて丸めるのはあたりまえだ、むしろ丸めるほうが本当ですよ。決して無理に教修を受けさせちゃいけない、命令的に信仰させるのは絶対いけない。いくら妻でも子供でも押しつけるのは絶対にいけません。信仰ってものはその人自身の心に湧き起ったものであるべきなんです。どうしても教修受けたい、やむにやまれず御光りをいただきたいっていうんでなけりゃ、受けさせてはいけません。お義理や命令で教修を受けるのは、神様に対してたいへんな御無礼ですよ。そういう人が御守りをかけると御守りが穢れますよ。そんなのは御守りを非常に安ッポク扱ってるんです。神様を安ッポクしてますよ。御無礼もはなはだしい。そういう者に御守りを与えるなんてとんでもないことです。

 まあ、これはこのままにしといて、この細君がたいへん悪いことをしたと心から覚って、どうしても信仰に入れていただきたいと気がつくまではそのままにしといていいです。……これは重大なことですからね、ちょっとした考え方で非常に違ってきますから、ここんとこによく気をつけなくちゃいけません。

 間違った考え方と言えば、この間もある人が火事に向かって浄霊したら、風向きが変わって大難が小難ですんでしまった。ところがその人は「これは焼くべきものを焼かずにすましてしまうんだから悪いんじゃないか」って言ってましたが、そうじゃない、非常にいいことなんです。つまり、それが神の慈悲なんですよ。悪人も助けなくちゃいけないんです。火事が起ったっていうのはそこが穢れているからそれを浄化するために焼かれるんですが、浄霊すれば曇りが消えて難を小さくしていただけるんです。不仕合せはこの浄霊によって消滅するんです。なにごとでも、人間の苦しみを減らすことは神の慈悲なんですから、よけいなことはなにも考えないで、無意識に、ただかわいそうだからやってやる、それでいい。無意識でいいんです。それがやむにやまれぬ慈悲なんですよ。そして、そうすることがまた、神様の御旨にかなうんですよ。

「『御光話録』十七号、岡田茂吉全集講話篇第二巻」 昭和25年02月28日