昭和二十五年一月二十日 講話(38) 光録16

〔 質問者 〕憑霊によると思われます場合、その霊を祀ることはいかがでしょうか。

 お祀りすると治るってのもありますが、まあ比較的少ないですね。また、こういうこともあるんです。お祀りすればいいって言うけど、霊は形式だけじゃ駄目ですよ。どうしても祀る人が心をこめて本当に供養するつもりでやらなけりゃいけませんよ。ただ祀ったからってそれだけじゃ霊は満足できないんです。
  

〔 質問者 〕供養の際雑念が入るのもいけませんでしょうか。

 そりゃあかまいませんよ。祝詞なんか上げてても雑念の入らぬ人はまずないでしょう。心を込めてってのはそういうことじゃなくて、例えば自分で祀るのは面倒くさいからって女中にやらせたりすることなんですよ。

 それからね、霊が懸ろうとしてもこっちに力があると懸れないんです。ところがこっちが弱ると懸れるんです。衰弱して死に近づくと懸ってる霊の判ることがあって、そうすると霊のための苦しみのように思えるんですが、そんなのも弱ったから懸ったんです。それに医学では衰弱療法をやりますからね。霊も懸ってじきのは離れますけど、懸って永いこと経ってるのはなかなか離れませんね。勿論、祀り方とかその霊の要求のいかんにもよりますがね。

「『御光話録』十六号、岡田茂吉全集講話篇第二巻」 昭和25年01月20日