昭和二十五年一月二十日 講話(13) 光録16

〔 質問者 〕芸術などをする人の人格が高潔でないことが多いように存じますが、これはどういうわけでしょうか。

 まったくですよ、私もそう思うんですよ。しかし、深く考えてみると無理もないんです。この間もある人と話したんですが、昔の芸術のほうがずっと優れている。私はこの前「日展」を見に行ったんですが、ほとんど立ち止まって見るような絵はないんですね。チラッチラッと歩きながら見るだけだったんですよ。これはなぜかって言うと、一番の原因は生活問題のためで、それで思うように案を練って描けないんですね。先日話をした人はある有名な洋画家なんですがね、その人に、「今年の油絵はだいぶまじめじゃないか、妖怪な人の絵もないし、地震で潰れたような家なんかもない」(笑声)って言ったらその人は「売れないからだ、みんな売りたいためにまじめなのを描いてる」って言ってましたが、まったくそういうふうに生活や商売に縛られているから、たとえ人格者であっても思うように制作できないんですね。この点をなんとかしなければ大芸術は生まれませんよ。
  

〔 質問者 〕昔の芸術には人の心を打つ深いものがありますけれど、現代のにはそれがありませんのは芸術そのものの堕落でしょうか。

 客観的には堕落だけど、これもそう一概には言えないんです。食えなけりゃいくら芸術家でもやって行けませんからね。終戦ごろまではよく財閥が芸術家を保護していたんですが、いまはもうそういうことができなくなってますからね。私は終戦後の芸術品で「これは買いたいな」と思ったものはないんですよ。いま言ったように終戦までは芸術家にいいパトロンがいたので絵だっていいのが描けたんですが……例えば美術院には原富太郎が一人に一万円、当時の一万円だから大きいですよ。そして一年に一つ作品を作ればよかったんです。また、銀行家の今村清之助って人は白山松哉を保護してましたが、この人の作品は実によかったですね、蒔絵でね。現在この人の作品を持っている人はあまりいないでしょう、おそらく私が日本で一番たくさん持ってるでしょうね。この人なんか実際名手ですがね。しかし、まあそんなわけで当分名手は出ないでしょうね。
  

〔 質問者 〕フランスのゴヤなんかはいかがでしょうか、そうとう放蕩なんかしたようですがいい絵を描いております。

 そうですね、けど、人格的に低い人のにはやはりいいのはあまりないですね。日本のでも私の知っている限りでは、すぐれた芸術家は人格的にもすぐれた所がありますね。

 あの尾形光琳なんかだってそうで、とても負けず嫌いだったんですね。だからこんな話がありますよ。あるとき竹の皮に金の蒔絵を描いて、それにむすびを包んで花見に行ったんですが、ほかの人はきれいな重箱かなんかに弁当を入れて来ていて、光琳が粗末な竹の皮の弁当だもんで嘲笑したんですね。しかし光琳が開けた竹の皮を見て人々はびっくりした、中が金の蒔絵ですからね。ところが、びっくりしている人々を尻目に、彼はむすびも食わずにその竹の皮ごと川の中へ投げてすててしまったんですよ。で、人々は二度びっくりしたっていう話ですね。しかし、これがお上に聞こえて、身の程を知らぬ奴だってわけで京都から追われ、江戸へ来て深川の材木屋に四年ほど世話になったんですが、その間にいい作品ができたんですよ。まあ、光琳は「身の程知らず」だったんですが、また一面とてもいい所もあるんです。それは彼の絵くらい余裕のある絵はない、貧乏くさくないですね。……ま、そんなのもあるけど、なんと言っても本当の名人は人格者ですね。芸能家だってそうで、名人と言われる程の人は違いますよ。芝居の団十郎だって私生活でも偉い所があったんですよ。

「『御光話録』十六号、岡田茂吉全集講話篇第二巻p」 昭和25年01月20日